天使病・ゼロ

4.

 聖域にふらりと足を踏み入れた女は天使だった。
 男は我が目を疑う。
 目は赤く血走り、顔はと青白く頬がこけていた。色素の薄い長髪の間から白い翼が生えている。それは男の背後にあるステンドグラスに描かれたそのままの姿だった。
 元は白であったのだろう薄汚れた長衣を引きずり、女は夢遊病患者のようにふらふらと歩いている。光を映さない瞳には狂気の後に現れる虚無だけが宿っていた。
 恐ろしく長い時間をかけ、女は教壇の前まで来た。崩れ落ちるように跪く。
 銀の燭台を磨いていた男はそれを見ているだけだった。突然の出来事と女に対する恐れ。そして天使とという存在に対する畏怖と畏敬の念。どうして良いかわからず立ち尽していた。
 聖書には天使は神の御使いとある。
 世間では天使は恐ろしい悪魔の使いと認識されている。
 布を持つ手は止まり、女の動向を見守っている。手を貸すべきか否か。神学校で習い得た博愛精神という名の良心が女を助けろと喚いている。一個の人間が当然持つエゴイズムと言う名の悪心が女を追い出せと囁いている。
 死ぬまで後悔するよ?
 お前は死んでもいいのか?
 冷たい汗が額を湿す。葛藤に身が引き裂かれそうになっていた。
 神聖な姿で女は醜悪な声を絞り出しつづける。喉が空気を求めて蠢き苦痛に喘ぐ。
 女が口から赤い塊を吐いた。身体を強張らせていた男は思わず燭台を落とす。木の床に広がった鮮血は文字通り鮮やかで、毒々しいまでに美しい。女の白い肌に赤い色もまた、美しい。聖域が受け入れてしまった女は聖域を汚している。混乱する思考の中で男はぼんやりと床掃除のことを考えていた。
 神は女を天より堕とし、男の前に遣わした。
 女の目が男を見た。焦点が定まらぬ目は男を通り越し、十字架に張り付けられた哀れな男の姿も見た。口元から流れる一筋の血が血溜まりの中に落ちる。
 割れんばかりの勢いで強引に聖域の扉が開け放たれた。宇宙服の塊が五個、押し入ってくる。重そうな外見とは裏腹に素早い動きで宇宙服たちは女を取り囲んだ。苦痛という感情しか映っていなかった女の瞳が脅えに変わる。
 宇宙服の一人が女の右腕を掴んだ。優しい掴み方ではない。腕の肉にグローブの指先が食い込んでいる。女は喚いた。翼を広げ、自由な腕と足を振り回して暴れた。翼が羽ばたくたびに羽根が抜け落ちる。白い羽根は鮮血の上に落ちて赤く染まった。赤く染まったその上にさらに羽根が落ちる。やがて幾重にも重なった羽根で赤い血が覆い隠された。
 もう一人の宇宙服がもう一方の腕を取った。女は激しく抵抗し宇宙服の肩に歯を立てるが、つるりとした表面は歯を滑らせる。行為が無駄であるにも関わらず女は同じことを繰り返した。二人に両腕を抱えられ女は宙吊りにされる。辛うじて届く爪先が床を擦る。裸足に床のささくれが刺さり細かい傷が幾つもできた。
 三人目は頭を抑えつけた。頚椎が折れてしまうのではないかというほど頭を左に倒す。側頭部を持つ宇宙服の腕を翼が叩く。その度に白い羽根が弾けた。三人目は抵抗を続ける女の意に介さず、剥き出しとなった首筋に細長い筒を押し当てた。刹那、激しい痙攣を起こして女の身体は静まる。首はうな垂れ、手足は力なく垂れ下がり、翼も下を向いた。
 男は目が痛いことに気付いた。瞬きもせず見ていたために目が乾燥していた。
 三人の宇宙服は吊り下げたまま女を外へ持っていった。連れていったのではない。まさに『持っていった』という表現が適切だった。彼らにとって女を連れ出すことは物を運ぶことと同義だった。
 残った宇宙服二人は背負っていたボンベから白い煙を噴出した。聖域の中を床から天井まで、そして男までも白い煙で覆い尽くした。羽根が埋めた床も、男が落とした燭台も、哀れな男の木像も、鮮やかな色彩のステンドグラスも全て白一色に染まる。煙は無味無臭であったが少しだけ病院の香りに似ていた。
 宇宙服はこの煙は人体に無害で数時間で消えてしまうと言った。男は何も言わず頷く。女はどうなるのか、という疑問が喉まで上ってきていたが言葉に出せなかった。仮に言っていたとしても、宇宙服は何の感慨もなくこう言うだろう。
「早急に処分します」
 答えはわかっていた。
 宇宙服は床に散乱した羽根を拾い集めて黒いビニール袋に入れていった。羽根の下から赤黒い染みが現れた。染み込んだ女の血液が描く形はメッセージのように思えた。
 仕事を終え撤収していく宇宙服の背に、男は震えた声で一言労いの言葉をかけた。どうして涙を流しているのか。自分の行動が男には理解できなかった。


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