天使病・ゼロ

5.

 天窓から月光が差し込む。淡い光が明かりのない室内を照らし出す。
 男の低い呻き声が静謐な空間を割り、聖域を少しずつ侵していく。色素の薄い髪は乱れ、掻きむしって抜けた数本が床に散らばっていた。
「何故だ」
 虚無に投げ出された問いに返事はない。無意識に漏れる福音の合間に問いが挟まれる。何度となく問う。喉が枯れるまで叫ぶ。返ってくる言葉がないことはわかっていた。響いて返る祈りの言葉が答えかと錯覚する。
 見開かれた目から溢れる涙はやがて血に変わった。全身わ走る激痛から逃れようと床に爪を立てる。古いながらもよく磨かれた木の床にささやかな傷をつけ、生爪が剥がれた。暗い床面に落ちる紅点がやけに鮮やかに見える。
 床に黒い染みをつくったのは男の体液だけではない。数週間前に訪れた女がつけた血痕。どうしても落ちなかった。逆流した胃液が女の残滓を覆う。
「何故なのだ」
 男が吠える。
 木のベンチ、演壇、パイプオルガン、ステンドグラス。
 そして、木の十字架に架けられたキリストの姿。
 無機物は月光を受けてひっそりと男を囲むばかりだ。木から掘り出された虚ろな目のキリストが見下ろしている。何者も映らない両眼を男は見返した。これまで崇拝していたものが所詮偶像に過ぎないことを再認識する。
 信じれば救われる。
 そう教えを受け、説いてきた。
 熱心な信者である両親から生まれ、当たり前のように神学校へ進み、当たり前のように牧師の道を選んだ。信じてきた素晴らしい教えを広めるために、こんな極東の島国まで来た。
 謙虚に、そして敬虔に男は成すべきことをしてきた。
 この教会に隣接する孤児院もそのひとつだった。
 肌の色も瞳の色も違う男を父と呼び、笑いかけてくる子供達。今、ひとりひとりの顔が脳裏をよぎり、消えていく。
「神よ」
 銀のロザリオを朱に染まった手で握る。月光に煌くそれは清められたナイフにも見えた。
 キリストを見上げる青い瞳がふと一枚のステンドグラスを捉えた。ラッパを吹く天使の姿が多彩に描かれている。その姿は黙示録に出てきた天使のものか。天使がラッパを吹く度に人は死んだ。
 天使は神の御使いである。神々しい光を纏って人の前へ降り立ち代弁する。
 人の子では到底及ばない神聖な存在だ。
 だが、人は天使になる。
 男の背筋を雷のような痛みが駆け上がる。のけぞり、無様に顔から倒れた。人の身体にはありえない新しい器官が内側から身体を破ろうとする。黒い牧師の服の背が大きく隆起している。瘤と呼ぶには大きすぎるそれは男を苛みながら自由を求めていた。
 天へ召されよという神の思し召しなのだろうか。
 まだ早すぎる、と獣のように吠えながら男が言った。
 己の身が惜しいのではない。後に残される子供達のことが気がかりだ。教会の牧師という庇護者を失えばどうなるのだろう。幸せにしてやりたいという義務感もあり、守ってやりたいという庇護欲もある。まだ自立という言葉の意味も知らない幼子ばかりだ。扉の向こうで安らいだ寝息を立てているのだろう。愛しくて仕方がない。
 本当か?
 疑問が浮かぶ。
 本当に自分は子供達を愛しているのだろうか? 養っているのはただの自己満足ではないのか?
 兆しは何日も前からあった。肩甲骨が形を変えていくのを自覚していた。背中の皮膚の下を虫が這っているかのような感覚があった。骨が大きく形を変える前に、子供達のためにも病院に行けば良かったのだ。
 その病は天使病。絶滅したはずの不治の病。
 そしてこの病は伝染する。
 数年前、日本で流行ったこの病気のことは異国の男も耳にしていた。まさか自分の身に降りかかってくるとは。
 恐かった。
 結局、恐かっただけなのだ。病院へ行くことが、人に知られることが、ここを離れることが。
 聖域を離れることで心も離れてしまいそうだった。信仰を失いそうな予感もあった。心の底から信じていたものを覆され、支えを失うことがたまらなく恐い。
 キリストが見ている。
 哀れな子羊が生を求めてあがく姿を、冷えきった無機の瞳で見ている。朝まではキリストの手の平から流れ出る血が見えていた。腰布が風に揺れている様子が見えていた。男にとって、それは本物だった。
 目が霞む。左手を傍らの聖書の上に置き、ロザリオを握る右手を掲げた。満足に出せない声を絞り出して言葉を紡ぐ。男は木の十字架を仰ぐ。うな垂れたキリスト像の瞳に温度はない。
 崇めていた輝くものがただの木片と化した。
 口から泡を吹く。断続的だった痙攣が激しく続く。背中に意識が集中し、五感が急速に奪われていく。時間の感覚などとうに失われていた。惨苦の時はもうどれだけ続いているのか。
 血で滲んだ視界の向こうに橙色の塊が見えた。あれははるか昔にテレビで見たことがある。海底の調査を行うために着る潜水服だ。四人の潜水服はぶ厚いグローブをはめた手を男に向かって伸ばしている。
 顔を覆うつるりとした球体に知らない男の顔が映りこんでいた。
 それはとても見るに忍びない姿だった。心底不憫に思う。
「アーメン」
 泡を吹きながら男は呟いた。


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