――あなたの名前、教えて?
*
キーボードを打つ手を止めて確認した時刻は五時少し前。僕は眼鏡の下の目をこする。
資料の出来具合は七割といったところだろうか。今日中には終われるだろうが、明日の会議に間に合わせるためにも残業は確定だ。
モニタに浮かぶ色鮮やかなグラフ群は眺めている分には綺麗だ。けれど、これらはただのオブジェではない。ひとつひとつが意味を持ち、僕はそれぞれに説明をつけていかなくてはならない。
定時を過ぎたら家に電話を入れないとな。
終業のベルが待ち遠しい。僕の帰宅を待っているであろう顔を思い浮かべた。残業なんて言ったらきっと怒るんだろうなと苦笑が浮かぶけれど、不思議と力が戻ってくるような気がした。
出来るだけ早く終わらせ、早く帰ってやろう。
両手で軽く頬を張る。
気合を入れ直して睨みつけた画面が突然乱れた。モニタいっぱいにホワイトノイズが広がり、二、三度画面が暗転する。狼狽して変な声が漏れてしまった。
「どうしました?」
パーティションで区切られた隣のブースから声がかかる。
「いや、端末が」
隣席の同僚にどう説明しようかと悩んでいる間にホワイトノイズと暗転が落ち着いてきた。元に戻ったと安堵するのも束の間、今度は画面いっぱいに破線が走った。ひびが入ってしまったのかと画面を撫でるも、そこにはつるりとした表面があるだけだった。
操作したくてもキーボードもポインタも言うことをきかない。
ああ、これは管理室に報告かな。
溜息吐きつつ電話のスイッチに手を伸ばしたところで、乱れた画面にポップアップメッセージが現れた。小さなウィンドウの中には簡潔なワンメッセージとイニシャル。
「どうしたんです?」
再び声がかかる。
「いや、何でもない」
僕はメッセージを消した。ポインタもキーボードも元の通りに回復していた。ウィンドウを閉じると同時に画面の乱れが収まり、終業のベルが鳴り響く。
これでひとまず時間の区切りがついた。室内に張り詰めていた空気が緩み、強張った体をほぐすように大きく伸びをする。あちらこちらの個人ブースの上から手がはみ出て見える。それでも誰も席を立たないこの光景にもすっかり慣れた。悲しいかな、僕たちは兵隊蟻。少し休憩をとってから時間外労働に突入だ。
黒縁眼鏡を外して目頭を押さえた。じわりと涙が出てきて目蓋の裏にフラクタルなマーブル模様が広がる。顔に降りてきた黒い前髪を耳にかけた。
「サクヤ、おつかれさん」
コーヒーのカップを差し出してきたのは同僚のヤン・ウェイロン。黄色い肌に切れ長の黒目で、今では珍しくなった純粋な中国人だ。
僕は純血ではないけれど、お互い数少ないアジア系ということで親しみが湧き、いつの間にか冗談を言い合うような仲になっていた。
「目、つらいのか? 矯正手術すりゃそんな痛みもなくなるぞ」
「矯正ったってサイバーアイに変えるんだろ。それじゃサイボーグ手術と同じじゃないか。保険は効かないわ定期メンテナンスは必要だわでいいことなんかないよ」
「メンテと言っても眼鏡を買い替えに行く頻度とそう変わらんよ」
渋い顔の僕にウェイロンは苦笑する。彼の左耳の穴にはつるりとした卵色の機械が埋まっている。脳にダイレクトに音声信号を伝える補聴器だ。ウェイ論はそれに軽く触りつつ、
「どこまでレトロなんだか。これだけサイバーウェアが出回ってる昨今、そんなこと言う奴いないぞ。みんなどこかしら機械と取り替えてるもんさ」
「ほっといてくれ。思想の問題なんだ」
「その長い髪もか?」
ウェイロンがカップを持った手で、遠慮なしに僕の髪を指差す。顔を覆わんばかりに垂れる黒い髪。女性風に言えばセミロングのワンレングスといったところだろうか。たしかに一般的な男性から見れば随分と長い髪だとは思う。煩わしくて何度切ろうと思ったことか。
「これは願掛けだ」
それでも切れない理由はある。また顔にかかってきた前髪を分け、眼鏡を掛け直した。空になったコーヒーカップをウェイロンの手に戻し、再びモニタに向き直る。
お行儀良く並ぶヒストグラムと円グラフ。ヒストグラムは右肩下がり。円グラフは扇の幅が狭い。表現方法をどう変えても、我が社のシェアは減少を示すばかり。これを明日の会議で提示しなければならないと思うと気が重く、知らず溜息も漏れる。
企画も営業も製造も販売も、誰も悪くない。時代が変わればニーズも変わる。ごく自然な時の経過で売上が減っているだけなのだ。役員たちはそれをわかってくれるだろうか。
じわりと痛むこめかみを揉む。手探りでバックアップ用のブランクディスクを探す。
「うわっ」
その手を突然ウェイロンが掴んだ。
「何するんだ。離せよ」
知っている仲とは言え男に手を握られるなんて勘弁してほしい。乱暴にならない程度に彼の手を振り払うが再び捕まる。そして彼から出てきたのは思いもよらない言葉だった。
「今日は記念日なんだろ。早く帰ってやれよ」
「よく覚えているな」
驚いて問い返すとウェイロンは片目を瞑り、僕の手の中からディスクを取り上げる。
「君の誕生日、彼女の誕生日、出会って一周年。一昨日の晩に散々惚気たのはどこのどいつだ」
一昨日の晩、と口の中で反芻する。ウェイロンはにやにやと笑うばかりで何も言わない。記憶の糸を辿り、そこに行きついてようやく思い出した。顔が赤くなる。一昨日と言えばプロジェクトの慰労会だ。二次会あたりで酩酊してそんなことを言ったような気もする。しかも部長に絡んでとんでもない宣言までしていた気がする。しかしそれは全ておぼろげな記憶で、夢とも判断がついていない。
「下戸のくせにグラス一杯一気飲みだもんな。記憶が飛んだっておかしくはないだろ」
「もしかして」
「ああ、プロジェクト全員どころか部内全員知ってる」
次から次へと彼の口に上る僕のプライベートに思わず頭を抱えた。その大半が本人すら聞くに耐えない惚気話。この一年かけて築きあげた「生真面目なタカギさん」のイメージが、僕の知らない間に瓦解していたというわけだ。
もうやめてくれ、と叫びかけたところで、ウェイロンは僕の腕を掴んで無理矢理立たせた。
「そういうわけで、今日は君を絶対定時で帰らせろという部長命令が出ている。でないと君の彼女は俺らを一生恨むだろうさ」
悪戯っぽく笑い、椅子に置いてあった背広を僕の方にかける。
「さあ帰った帰った。きっと奥さん待ってるぞ」
「まだ奥さんじゃないよ」
「まあまあ」と言いながらウェイロンは勝手に人のコンピュータをシャットダウンする。ぼんやりと突っ立っている間に勝手に退社準備が整っていく。
「それも時間の問題だろ」
コンソールから抜き取ったIDスティックを僕の首にかけ、腹を撫でるような仕草をした。へその下あたりでほんのりと膨らみを持たせる。そのジェスチャーに僕はやおら顔が赤くなった。自分で言うのも恥ずかしいけれど、人に言われるのも照れ臭い。
「わかったよ。それじゃ明日の会議資料はお前が作っておいてくれよ」
「おいおい、そりゃないぜ」
大仰に肩を竦めておどけて見せたが、そんなのは仕草だけだ。ウェイロンは僕なんかよりもはるかに出来る男なのだ。
「一つ貸しな」
ウェイロンはディスクを左右に振りながら自分のデスクに戻っていった。そんな彼の背に感謝の言葉をかける。
「お前怒ると恐いしな」
そんな呟きも聞こえたけれど、聞き流して僕はオフィスを後にした。
*
ビルを出るのとほぼ同時、周囲のオフィスビルも人々を吐き出した。商社街は賑やかになり、解放された人々は柔らかな声で言葉を交わす。日も沈む頃合だった。黄昏の中にビジネスライクな挨拶はいらない。
僕は口をつぐんだまま一人、雑踏を歩きながら物思いにふける。テンポ良い歩みのリズムは考えごとにちょうどいい。
夕日が名残惜しげに沈んでいき、最後とばかりに街を橙に照らす。直線で区切られた土地と、コンクリートに覆われた地面。無機質ながら清潔感のある都心部。ふと、そんな小綺麗な街並みが眩しく見えた。
元々、僕がいたのはこんな綺麗な街ではなかった。ストリートの仲間とともにゴミ溜めのような街を走り回っていた二年前。あの頃の自分に今の自分を見せたら何と言うだろう。整然とした街の整然としたオフィスで日がな一日コンピュータを睨む仕事をしている。昔の僕は退屈極まりないと一蹴するだろうか。
だけど今は数年前の自分にはなかった物を持っている。手に入ることがないと半ば諦めていた物がある。
ホワイトカラー然とした仕事、定期的な収入、気のいい同僚、社会的地位。
家で待つ大切な人――人並みの幸せ。
帰る家があって、待ってくれている人がいる。「おかえり」の一言がたまらなく嬉しい。どんなに疲れていても、その一言が癒してくれる。僕は一人じゃない。
平凡という名のささやかな幸福を奥歯で噛み締める。
僕は彼女の本当の誕生日を知らない。彼女自身も知らない。ウェイロンには今日が誕生日と言っていたけれど、それは後から作ったものだった。
僕と出会った一年前、彼女は全ての過去を失っていた。僕の顔を見る瞬間までの記憶全てだ。もちろん自分の名前すら知らず――身につけていた物は服だけで、身分を示す物すら所持していなかった。
たったひとつ、耳の裏の小さなバーコードタトゥーが意味深だったけれど、そんなものは何の手がかりにもならなかった。まさしく身元不明の記憶喪失者だった。
だから彼女は自分の誕生日を知らない。誕生日がないから、誕生日をほしがっていた。生き物には全て生まれ落ちた日があるけれど、それを誕生日として祝えるのが人間の証明であり特権だというのが彼女の主張だった。自分が生まれたことを誰かが祝ってくれるなんて、生き物として最高の贅沢だと。
だから僕は初めて出会った日を彼女の誕生日にした。
その日はたまたま僕の誕生日でもあった。
実は僕も自分の本当の誕生日を知らない。親の顔も知らない。僕の家族はストリートで一握りの仲間たちで、小さな悪さを繰り返して日々を生きていた。陳腐な話だ。スリ、強盗、ヤクの運び屋――生きるために必要だから、やれることはなんでもやった。
だけどそんな僕にも転機が訪れることもあるわけで。
ヘマをして捕まって、警察でこってり絞られて、その後送られた更正施設で僕はすっかり生まれ変わった。捻くれた性格は真っ直ぐに伸び、真面目に平凡に生きる大切さを学んだ。 真っ当な人の中にあってはストリート出身者は差別だなんだとあるけれど、そんな逆境にもめげなかった。底辺から這い上がり、念願の市民権を得たのが二年前の今日のこと。その日が僕の誕生日だ。戸籍を手に入れて僕が社会的に人間と認められた記念すべき日だ。
僕が人となった二年前の今日。
そして彼女が彼女となった一年前の今日。
今の彼女には僕と過ごしてきた記憶しかない。けれどこの一年の間に彼女はたくさんのものを得た。そして僕も彼女からたくさんのものを貰った。
すれ違った女性から甘い香りがした。シャンプーの匂いだろうか。ちらりと目を向けると、顔は見えないけれど綺麗な黒髪が見えた。
そういえばと思い出す。出会ったときの彼女は丸刈りが少し伸びただけの短髪で、最初は女性には見えなかった。あの頃に比べれば今はすっかり長くなり、印象も柔らかくなった。 誕生日プレゼントには髪飾りもあげようかと考えつつ、ポケットの中の小さな箱をを握りこんだ。その中には銀色のリングが入っている。
何と言って渡そうか。
頭の中にたくさんの言葉を詰め込んで道を急ぐ。