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es(2):back/小説目次

 薄闇の中でロケットが僕らを見下ろしている。宇宙開発事業華やかなりし頃に立てられたオブジェだ。白とオレンジに塗り分けられていたロケットは風雨に錆びつき、少しだけ傾いている。先進技術の象徴だったはずのそれは、今では前時代のゴミと化していた。
 周囲を取り囲むのは廃墟同然の建物ばかり。家を追われた人々が棲み、小悪党たちの集会場となり、時には抗争の場ともなる。典型的なスラム。
 喧騒と剣呑な人々と欲望に溢れた街。清潔には程遠く、政府も中々手を入れようとしたがらない。住民は銘々好き勝手に生活している。
 不愉快ながらも懐かしい空気に包まれ、僕は過ぎ去った時に思いを馳せる。かつて住んでいたのもこんな薄汚い街だった。青春と言うには殺伐としていたけれど、それでも多感な時期をあそこで過ごしたことには間違いない。失ったものへの懐古主義は日本人の悪い癖だと思いつつも、郷愁をかき立てられれば浸ってしまう。
 細い路地を抜けるところで肩を叩かれた。ぎくりとして僕は止まる。僕がここにいることは誰も知らない。僕がこんなところに出入りしていることも誰も知らない。
「そのままで」
 振り向こうとして低い男の声に押し留められた。聞き覚えのない声に誰何しようとしたところで、男が短いフレーズを呟く。
「――Socrates is an evil-doer and a curious person」
 プラトンの『ソクラテスの弁明』の一節、ソクラテスが訴状を約した際の出だしだ。この時世、古典に興味を示す人間など学者以外にはなく、身元証明代わりの合言葉にうってつけと決めた言葉だった。
「会社の回線に連絡するなと言ったはずだ」
 正面を向いたまま僕は背後に苦言を吐く。目の前ではボロ服の浮浪者が猫に混じってゴミの缶を漁っている。彼らはお宝を探すのに夢中で僕たちには気付かない。
「そのほうが早いんでな。安心しろ。貴様の心配するような事態にはならん」
 紫煙が漂ってきた。どこか悠然とした物言いも鼻につく。
 オフィスのモニタを乱され、突然メッセージを送りつけられ、肝を冷やさないわけがない。会社のコンピュータには管理者がいるのだ。こんな奴と連絡を取り合っていると知れれば首を切られる羽目になる。どんな凄腕だかなんだか知らないけれど、ストリートの情報屋が僕――依頼者の平和を乱していい道理はない。
「で、持ってきたのか」
 こんなところに呼び出され、物がないとは言わせない。懐疑的な僕の言葉に、肩口から青白い手が伸びてきた。痩せこけた筋だらけの腕が、小型のデータディスクを剥き出しでつまんでいる。それを掴もうとしたら闇の中に引っ込んだ。
「ブツの前に金だ」
 ぶっきらぼうな声に頷いてみせ、僕は懐から小さな棒を取り出す。
 ストロークレジット――名義抹消済のクレジットスティックを闇の中に投げる。カランという乾いた音。そして間。ストローの額面を確認しているらしい。
 名義ありストローは本人しか使えないけれど、名義無しは身元を開示することなく使えるので、よく現金代わりに使われる。
 ほどなく、再び手が現われた。僕はディスクを受け取って取引は完了。契約が終わればあとはお互い知らない者同士に戻る。
「ひとつ、サービスとして警告してやる」
 別れの言葉もなく、背を向けたまま去りゆくはずだった。薄い紫煙はまだそこにあった。
「こいつはただの身元調査では済まなかった。そいつの中身は相当ヤバい代物だ。それを見て無事に済むと思うなよ。『今』が大切ならば見ないほうが貴様の身のためだ。それでも見るなら会社や自宅ではなく、無人ブースにするんだな。そして端末諸共破壊しろ」
 それだけを告げて声が消えた。煙草の香りもストリートの悪臭に紛れて失せた。

 *

 懐に忍ばせたデータディスクがやけに重く感じる。情報屋が忠告してくるほどのデータ、ここには何が詰まっているのだろう。家出人の調査と同じようなノリで依頼したのに、神妙な答えが返ってくるとは予想外だった。
 警告されずとも、僕はこいつを会社や自宅で見るつもりはない。逸る気持ちが足を急がせ、道端に乱立する適当なネットブースに入り込んだ。
 ネットブースは一般的に利用される公共の端末ではない。その辺から回線を盗んで営業している違法端末で、一人用の小汚いボックスに一昔前のノートパソコンが置いてあるだけのお粗末な設備だ。少々割高である代わりに匿名性が高く、まず真っ当な目的には使われない。犯罪の温床になると政府は必死に摘発するが、潰しても潰しても業者は次々とブースを作る。街の裏道にはそんな箱が無数にある。
 たまたま入ったブースには椅子もなかった。地べたに端末があり、地面から生えた橙色のケーブルが繋がっている。やむなく座り込み、膝の上にノートパソコンを抱えた。
 傍らに置かれた四角い箱に名義無しのストロークレジットを突っ込むと、表面に刻まれた額面が刻々と減っていく。同時に端末の電源が自動的に入る。誰が考えたのか知らないけれど、なんともうまい仕組みだ。
 端末がオフラインモードで動くのを確認し、念のため、ネットワークケーブルも引き抜いておく。データを閲覧するだけだし、ネットに繋がっているとかえって危険なこともあるからだ。
 スロットにディスクを挿入する。モニタに新規デバイス認識の表示が出て、端末は音もなくデータを読み込んでいく。やけに長いロード時間が気になった。どうしてこんなに大量のデータがあるのだろう。たった一人の人間の半生を洗うだけだ。紙切れにすればせいぜいレポート用紙十枚程度で済む内容じゃないのか。
 ロード完了のメッセージがポップアップで表示される。あとはエンターキーを押すだけだ。それだけで僕が求めていた答えが出てくる。
 だけど。

 ――『今』が大切ならば見ないほうが貴様のためだ。

 情報屋の言葉が耳の中に蘇る。
 見てはいけない。知ってはいけない。
 今を壊したくないならば、何も知らないでいたほうがいい。

 もう一人の自分が耳の内側で騒ぐ。額に滲んだ汗を拭い、意識して瞬きを三回。今更臆病風に吹かれたかと自分自身を叱咤する。第六感からの警告は従うべきと知りつつも、躊躇に要した時はほんの数瞬だった。
 ――好奇と未来。
 ――現状と停滞。

 どちらを望む?

 震える指でキーを押下した。
 息を呑む。
 狭い画面に様々なデータが展開していく。浮かび上がる文字列。画像。動画。どこかの建物の見取り図。数式、化学式、わけのわからないデータの羅列。螺旋構造の立体画像(ホログラフィ)。
 そうして立ち上がったアプリケーションの中に、人物データベースの閲覧ソフトがあった。ウィンドウの左側に写真、右側には詳細なデータが付されるよくあるタイプものだ。その画面を一番手前に表示させる。データ表示は自動再生モードになっていた。人の顔が出たかと思えば画面は一秒かそこらで次の顔を表示する。
 次々と僕の前に現われる、人の顔。顔。顔。
 量が半端無い。百人、二百人では済まない。
 サイバーアイならともかく、人間の生身の目で追っていくには限度がある。写真と名前を見て取るだけで精一杯だ。昨日やっていた商取引データの総チェックなんて、これに比べればまだ生温いものだ。目が充血して痛い。それでも可能な限り全ての写真に目を通す。
 白人黒人黄色人種。老若男女を問わず、全てが知らない顔で、ひとつとして同じものはない。丸い顔、長い顔、金髪、黒髪、赤毛――だけど、どれもどことなく見覚えがあるような気がするのは錯覚か。
 こんな人物データべースに何の意味があるのだろう。あの情報屋、別の顧客の依頼と間違えたんじゃないのか。
 そう思いかけた頃、一つの顔に行き当たった。慌てて自動再生を解除し、一つ一つデータを戻って行く。
 やがて至ったその顔。
 色素の薄い目と髪。虚ろな瞳は何も映さず、正面を向いているだけ。
 坊主に刈り込んだ頭。
 ――今より少しだけ若い彼女の顔。

 添えられた個人データには被験体という言葉がついていた。そして識別番号。人名に相当する項目はなく、工業的に付けられた番号こそが彼女の本当の名前だった。

 わななく手でディスクを抜き出した。本当のところを言うと、三度ほどイジェクトボタンを押すのを失敗している。掴んだディスクをその場で叩き割ってやりたかったが、理性を総動員して押し留めた。
 吐き気がする。
 ただの身元調査だったのだ。彼女と法的に結ばれるために、身元を明らかにしようというのはごく自然な話だろう。なのに、こんな結果が出てくるなんて。僕たちの間にあったのがこんな物だったなんて。
 心臓が早鐘を打ち、喉が乾く。
 コマンドでログ制御パネルを呼び出し、端末の利用記録を抹消する。データをロードした記録を消すだけで良かったけれど、それだけでは足りない気がしてモニタを叩き割った。液晶ガラスが手の皮を切り裂く。血が流れ出してコンソールをショートさせた。青い火花が飛び散って端末が沈黙する。
 視界は赤く、眩暈がする。
 白くなるほどに唇を噛み締める。口中に広がる鉄錆の味がたまらなく不快で、地面に唾を吐き捨てる。
 視界の片隅に炎が映った。外の様子を伺うためのスリットを覗くと、少し離れた場所のゴミ箱が燃え上がっていた。浮浪者が火事だと騒ぎ立て、ぞくぞくと人が集まってくる。
 これ幸いとそっとブースを出る。野次馬は皆、炎に魅入られていて、僕に気付いた気配もなかった。

 *

 エレベーターを待つのももどかしく、足早にマンションの階段を駆け上がった。それに合わせて手の中の小さな花束が揺れる。スラム街から抜け出た帰路の途中で買ったものだ。もう少し胸中穏やかであったならば甘い香りに酔いしれることもできただろう。本物の花なんて買ったこともなかった。地べたを這いずり回っていた頃には実在することすら知らなかった。こんな物は金持ちが買い求める嗜好品だと思っていたから。
 かつて世界は花に覆われていたというけれど、僕には到底想像できない。そんな幸せな時代に生まれていたならば、僕も彼女もまた違う出会いをしていただろう。間違っても、この身を焼く焦燥だけはなかったはずだ。
 今はただ、彼女を抱き締めたい。柔らかな身体を腕の中に収め、二人温かな時を過ごしたい。たったそれだけのささやかな願い。

 ぶち破った扉の奥、二人だけの小さな住居はすっかり変わり果てていた。
 窓が無い。あったはずの場所には大きな穴が開いていた。とてつもなく大きな鉄塊が破砕したとかそういう類ではない。綺麗な真円に切り取られ、周囲の壁にはひび一つ、焦げ一つない。
 家具はことごとく破壊し尽くされていた。肩を寄せ合って座ったソファも、思い出の品を納めたキャビネットも、飾ることを知らなかった彼女のために買った鏡面台も、テーブルもテレビもベッドもありとあらゆる物が機能と形を失っていた。
 僕は玄関口で立ち尽くし、呆然とその有様を見ていた。花束が手から落ちる。音に振り返る来訪者。僕はその姿に激しく狼狽する。
 年の頃は僕と同じくらい。白い髪。色素を失った瞳。人にしては尋常でないほど血の気がない、蒼い顔の青年。死者であっても疑わない無彩色の姿において、ことさら目を引くのは身に纏う色鮮やかなコードだ。一体どんな趣味なのか、毒々しい蛍光色の線が身体から生え、また身体のどこかへと繋がっている。
 良識と常識を疑うよりも先に、僕の心は凍りついていた。
 死神がいるならばまさしくこの男だろう。生も死も曖昧で、どちらの世界にも与する存在。冷め切った目と僕の目が合い、凍てついた塊が背筋を降りていく。
 青年は、片手で細い頚を掴み上げていた。何度となく僕が縋り、口付けたあの白い首。首を掴む手に添えられた指は弱々しく、もはや引き剥がすだけの力もない。いや、元よりそんな握力はなかったはずだ。
 苦しみに喘ぐ顔がこちらを向いた。
「逃げ」
 彼女は最後まで言い切れなかった。首にかかった手から電撃が迸る。目に見えるほどの高圧電流が柔肌を滑り、一瞬にして黒塊を作り上げた。人が焼ける嫌な匂い。骨までも焼き尽くし、彼女であった黒い残骸が奴の手の中で崩れていく。灰が風にさらわれる。
 彼女と、彼女の中にあったもう一つの命が、灰に。
「何故」
 奴の手からわずかな灰が零れ落ちる。呆気ない最期。
「何故、彼女を」
 崩れ落ちた膝の下で花束が潰れた。赤い花弁が血飛沫のように散る。搾り出した声は誰に対する問いなのか。青年なのか、こんな運命を作り上げた神なのか、判別がつかない。
「理由は貴方が一番良く知っているはず」
 穏やかに微笑む顔にわずかに翳りが浮かぶ。
「遺伝子同士が引き合うんです」
 僕はなんとなく予見していたのかもしれない。彼がここを訪れることを。彼が彼女を焼き尽くすことを。
「貴方達がそうして惹かれあったように、俺も引かれてここに辿り着きました」
 憂いを帯びた目が僕を見る。ゆっくりと近付いてくるのに、足に力が入らない。腰が抜けて立つこともままならず、間の抜けた格好で彼を迎える羽目になる。
「サクヤ・タカギ、それが今の貴方の名前ですか。随分と趣味が悪いですね」
 鼻先を覗き込む銀色の瞳。彼女を鬼籍へ追いやった手が僕の眼鏡を外し、指先にまとわりつかせた電撃で前髪を焼いた。
「貴方が今までで一番俺に似ています」
 毎朝見ている顔がすぐそこにあった。違うのは瞳と髪の色だけ。
「"俺"はこの世にいてはならないんです」
 弾かれたように飛び退った。脳の神経回路をフルオープン。眠る脳をを叩き起こし、大量のアドレナリンを分泌する。加速して神経細胞を駆け巡る電気信号。
 思考はクリア。冷えた身体に熱が戻る。
 人であれば不要な機能。人であれば自由に使うことができない、脳操作。
 カチっと頭の中のロックが外れた。ついでにどこかの血管も切れた。体内の奥底で燻っていた炎が再び燃え上がり、釜をぐらぐらと煮え立たせる。ここぞとばかりに体内で暴れ始める熱い何か。どんなに強靭な精神で押さえ込もうとも、いずれ爆発したであろうそれを解き放つ。
 体内の生体電流を人の何倍にも増幅する。指先から熱が立ち上り、部屋の惨状が陽炎の向こうに見えた。指先は無空間ではない。酸素が、炭素が、窒素が漂っている。それらの分子がミックスされたもの、即ち空気に火を灯す。他人には何も無いところに突然炎が現われたように見えることだろう。
 熱が上がるにつれて黒い髪が白に転じていく。本来の色に戻っていく。おそらく目も黒から銀に変わっているはずだ。目の前の男と同じ、忌々しい色に。
 血の涙が頬を伝い、瞳が野獣の光を宿す。それは、遺伝子レベルで組み込まれた狂気。
 周囲の景色が熱に揺らぐ。奴の手から奪い返した眼鏡がどろりと蝋のように溶け、地に落ちる前に蒸発して消えた。
 元より長い前髪も眼鏡も顔を隠すための物。隠す相手が目の前に現われた今、それが何の役に立とうものか。
 僕は彼と同じ顔をもって対峙する。二人の間に炎の壁が立ち、天井を焦がす。
「発火能力者(パイロキネシス)ですか」
 壁の向こうで嘆息する彼の名前は知っていた。つい先刻に見たデータにあったからではなく、生まれ落ちた頃より幾度となく耳にしてきたからだ。
 僕たちを生み出した大本であり、決してこの世にあってはならない物を抱え込んだ存在――本物のサクヤ。
「俺たちの力は危険すぎるんです。一度狂気に囚われれば、この世界をも消滅しかねません」
 咎人であり、断罪者。
「その力は誰も救えない。誰も幸せにできない」
 サクヤの言葉は僕に向けると同時に自分に言い聞かせている。あえて感情を消した声で語りかけるけれど、心は僕の頭と同様、嵐の中にあるはずだ。
 本当は一つであるべきだった存在だからこそ、手に取るようにわかる。
「俺たちの『力』は外に出たがります。どれだけ押さえ込もうとも無意識で使ってしまうこともある。そんなものを抱えたまま、社会の中で平凡に生きていけると思っているんですか? 羊の中に、爆弾抱えた狼を放しておくようなものです」
 そう、彼の言葉が真であることも。
 噛み締めた奥歯が軋み、口中に血の味が広がる。床に吐いた唾が一瞬で蒸発した。
「それでも彼女は生きたかった。そして僕は彼女のために生きたかった」
 煮えたぎる腹の奥底から言葉を搾り出す。あまりにも人間くさく、傲慢な返答であるのは承知のこと。
 十数年前、研究所にいた頃には考えたこともなかった理由。二年前、路地裏生活をしていた頃には口にすることすらなかった台詞。この一年、彼女と出会って僕が得た人間性。
 僕は人でありたかった。
 炎の壁を歪める。思うだけで炎は自在に形を変える。円柱状にまとめあげ、その内部に渦を宿した。渦は赤い竜巻となり、やがて竜のごとき姿となる。紅蓮の竜が顎を開いてサクヤを睨み据えた。銀色の瞳が赤を映す。
「貴方は何もわかっていません」
 炎竜を前にしてもサクヤは顔色ひとつ変えず、それどころか腕を組んで見返してきた。見た目には焦りもなければ戸惑いもなく、それがかえって僕の神経を逆撫でする。眼底が軋んで痛い。
「何をわかれと言うんだ! 僕は彼女のおかげで本当の人間になれた。それを今更、何の権利があって奪おうとする!」
 指向性の炎の塊がサクヤを呑み尽くさんと襲いかかる。
「オリジナルだからです」
 たった一言だった。
 ビデオの一時停止ボタンを押したかのように、サクヤの眼前間近で竜が止まった。開いたままの顎はもう少しで白い頭に届くのに、留まったまま動かない。否、動けない。
 青い雷の筋が網目のように広がり、竜を覆っていた。自由にしようと僕は更に力を注ぎ込むが、炎竜がもがくとかえって束縛が固くなる。苦悶にのた打ち回る。
 天井の蛍光灯が火花を放って割れた。
 竜を捕らえているのは電撃の防護壁だ。高圧電流という言葉も生温いすさまじい放電量。距離を置いているはずの僕の肌にも電磁の痺れが届く。
 有機の生物のように蠢いていた電撃が、不意に蜂の巣状の壁に転じた。半透明の青く細長いケースの中に炎が閉じ込められ、そして呆気なく消えた。本当に一瞬で。
「何を……」
「貴方が俺ならば、何をしたかくらい理解できるでしょう」
 青い壁が音もなく崩れ、足元に落ちる前に消えた。息を吐くような音ともに小さなつむじ風が起こる。
 科学というほど大層な現象ではない。空間を真空化して火を消したのだ。
 凄まじい嵐の只中にあってもサクヤの心は冷え切っていた。冷たい目が哀れむように僕を見る。心の温度差がたまらなく悔しく、そしてそんな自分が惨めだった。
 戦場では冷静になれと教わった。冷静な判断力を欠いた人間が真っ先に死ぬのだと、耳にタコができるくらい教官から聞かされた。そして僕たちは感情を抑えて戦う術を手に入れたはずなのに、だけど。
 獣じみた咆哮が轟く。全身が暴力的に唸っている。
 一昔前は愛に生きるだなんて格好悪いと思っていた。愛する人のためなら身を投げ出せると言う人間の気持ちなんてわからない。彼女が好きだった悲恋映画は退屈でたまらなくて、僕には到底理解できない類のものだと斜めに観るばかりだった。
 そう、今もわからない。復讐なんて悲しみの連鎖となるだけで何も生み出さない。わかっているのはくだらない自己満足だということだけ。
 だけど、彼女のためならば鬼にでも修羅にでもなれると思った。僕の中のリミッターを断ち切るのは研究所の人間でもなく、サクヤでもなく、僕自身でもなく、彼女なのだ。
 がむしゃらに振るう腕が赤い。指先はもう熱に溶けていて、熱いとか痛いとかそんな痛覚も麻痺している。爪なんてなくなっているかもしれない。放った炎の弾はどれだけの数になるだろう。怒りに任せたそれは全て僕の限界を超えるほどのものなのに、ことごとくサクヤに届く前に消える。
 心臓を狙った一射も、頭を狙った好投もどうしても届かない。白いジャケットに煤をつけることすらできない。
 室内の温度は上昇し続ける。サクヤの身体から伸びる派手な色のコードはとっくに耐久温度を超えているはずなのに、溶けることなくそこにある。
『コピーはオリジナルに勝てない』
 リフレインする声が、徐々に僕を追い詰める。
『コピーはオリジナルに勝てない』
 僕はコピーじゃない。改良型だ。オリジナルよりもより優れた能力を発揮するよう作られた。オリジナルに劣るはずもなく、本当ならば目を合わせただけで人体に火をつけられるんだ。
『コピーはオリジナルに勝てない』
「生きたいと望む想いがあれば! コピーだって生きられる!」
 そう叫んだのだと思う。すっかり熱にやられた喉から出てくるのは掠れた声ばかりだ。赤い涙は流れる端から蒸発していった。
「嘘ですね」
 冷水のような言葉。
「貴方のそれは生への渇望ではありません」
 彼の顔が始めて歪んだ。怒りでもなく、憎しみでもなく、哀れむような、泣きそうな顔。
「ただの憎悪です」
 怨嗟が生み出すのは新たな怨嗟だけである。それも理解できないのかと言いたげに見えた。
「うるさい」
 ――同情なんていらない。
 ――同情して見逃してほしい。
 相反する二つの思いが僕の中にある。あまりにも人間のエゴ丸出しで実に醜い。そんな自分を嘲るもう一人の自分が見えたような気がした。長い前髪をかき上げて、口の端を吊り上げて。そしてその顔が目の前の青年に重なる。
 色を失った顔と目が――僕を見ている。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
 眼底が痛い。脳幹が万力で締め付けられる。目の奥で瞬く光が邪魔だ。なのに暗い。部屋は火の海なのに、明るいはずなのに暗くてよく見えない。
「俺たちが犠牲になるしかありません。それが世界のためであり、人類のためです」
 声がしたほうに向かって腕から搾り出したものぶつけた。それが何かに当たって砕けた音を聞く。壁か、棚か、天井か。瓦礫が崩れ、舞い上がった粉塵が顔にかかるのを感じた。
「業は全て俺が背負って行きます」
 まだ声は消えない。今度は後ろから聞こえる。消えてくれ。もうその声は聞きたくない。聞きたくないんだ。見えないのに声ばかりは聞こえてくる。どうして、どうして。
 耳朶を打つ轟音。溢れんばかりのノイズが脳に侵入してくる。
 神経を捻り上げる。
「さようなら、我が兄弟」
 騒音の海の中、沈みきった先は想像していたよりも静かだった。

 *

 そして彼はまた独りになった。

 引き千切れた命がまた一つ、燃え上がる。
 いずれこうある運命だったのだとしても、それはあまりにも悲しすぎた。まだ二十を出たばかりの青年には荷が重すぎる。
 力が抜ける。直立していた背を丸め、深く息をつく。うな垂れると蛍光グリーンのコードも垂れ下がってきた。首から伸びるコードを少し引っ張って背のほうへ追いやる。
 死途への餞にと呟いた言葉は火が爆ぜる音に消え、死者へは届かない。
 ふと目を落とした床に小さなペンダントが落ちていた。真鍮製のペンダントヘッドはロケットになっている。それは熱を帯びていたものの、手が焼けるのも構わずに拾い上げる。小振りながらも精緻な象嵌を施されていたようだが、表面が溶け、台無しになってしまっていた。
 蓋が溶けて開かない。やむなく留金を破壊してこじ開けた。
 そこにあったのは、自分によく似た笑顔が二つ。憂いもなく、悲哀もなく、ただ二人でいることだけが幸せだった頃の思い出。
 彼らが求め、ひとときながら得た平穏。
 青年は軋む心臓を抱えてうずくまる。
『咲也、泣いてるの?』
 自分を待っているであろう、待っていたであろう女性ならばそう言うだろう。身体は傷ついていないのに、痛い。
 唸るサイレンが近付いてくる。
 招かれざる客は退場の時間だ。

 手の中のロケットを部屋の中央に置いた。
 かつて窓だったところに立ち、肩越しに部屋を一瞥する。
 そしてそのまま、まるではじめからなかったかのように青年の姿がかき消えた。

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