[00] [01]
あれから二年が経った。
つい二ヶ月前に卒業したばかりの高校を思い出す。二年前まではどこにでもあるような平凡な学校だった。毎年同じカリキュラムが組まれ、毎日同じような日々が過ぎていく。惰性のように流れていく時間だったけれど、とてもかけがえのない時だった。
三年は長いようで短く。
翻弄されるままに時は流れ、気が付けば三年の終わりが近づいていた。
三年間の思い出。
やはり思い出すのは、あの事件のことだ。
世間では高校消失事件と言われている、あの悪夢とも言える、悲しい日々。
いつもと同じ、ただ帰るだけだったはずの放課後が、一瞬で異界へと放りこまれた。たしかに校外に存在したはずの街並みは消え失せ、暗い闇ばかりが広がっていた。
今、思い出しても身震いしてしまう。
そこは魔界、と呼ばれる空間だった。人でない、化物としか呼びようにない生物たちが跋扈する、一人の王が支配する世界だ。
怯え、泣きじゃくり、虚勢を張り、逃避した。校内に残っていた全員が恐怖し、環ることを願った。
願っただけでは戻ってこない。何人の人間が行動を起こしただろうか。ほとんどは人外の者を見てしまい、教室に留まって隠れることしかできなかった。
だけど、自分は違った。学校と外を繋ぐ、あの非常階段から第一歩を踏み出した。
もちろん怖かった。襲いかかってくる犬面の化け物や、魔法を使う実体のない霊魂を前にして、何度逃げようと思ったかわからない。生存本能が逃亡をささやき、素直に従うべきだと理性も呟いた。膝が震え、腰がひけた。手に持った銃の焦点が定まらず、引き金にかけた人差し指に力が入らなかった。
それでも逃げられなかった。
元の世界に帰りたくて、もう一度太陽の光が見たくて、目を閉じて引き金を引いた。
偶然当たり、化物が霧散した。隣にいた悪友が短い口笛を吹く。
一人じゃなかった。
悪友と、挨拶する程度だったクラスメートと、隣の席の気の強い奴と、不良と囁かれていた名前しか知らない奴。
仲間がいたからやっていけたんだと思う。
隣の席の奴と不良と言われていた奴は、非常階段ではなく、自分たちとは別の出口から出ていった。別れる間際、彼女は「じゃあ行ってくる」と言った。真っ直ぐな瞳が「絶対帰ってくるから」と言っていた。
彼女に「また後でな」と答える自分がいた。
あとは日常を取り戻すために邁進するだけだった。
最初は怖くて怖くて、武器を持っても頼りなくて、化物一匹にも苦戦していた。倒せば倒したで、飛散した体液にすら嫌悪感を覚えた。
だが、人間の適応能力というのは恐ろしいもので、次第に慣れていった。頬についた赤い液体を手の甲で拭い、かつて生きていた物をまたいで前へ進んだ。
無我夢中でふるう力が強さを増すにつれ、心のどこかに空いた穴が広がっていく気がした。
強大な力を得ることは空恐ろしい。精神が力に食い尽くされてしまう。
だから、校舎の外に青い空が広がったあの時。一安心している自分がいた。自分の中にあった力が消え、虚ろな穴が埋まっていく。力は破壊しか知らず、無意味なものしか生み出さない。
目の前から消えていく魔界の王だった男にそう教えてやりたかった。
左腕につけていたアームターミナルを外し、メニューの一番下を選んだ。確認画面がゴーグル型ディスプレイに表示される。「ありがとう」と呟いて、『Enter』キーを押した。傍らに立っていた天使の微笑みが薄れてく。完了画面が出て、全てが消えた。
もう、必要のないものだった。
髪を茶に染めたクラスメートはずっと外を眺めている。悪友が大きなあくびをして「帰ろう」と言った。
そして帰ってきた。あっさりと日常が帰ってきた。しばらくはマスコミに囲まれて大変だったけれども、謎の解明に何の進展もないと彼らはすぐに興味を失った。いつものように授業が行われ、いつものように一日が過ぎた。
全てが元に戻ったわけではない。一人、隣の席の彼女と一緒に行った男だけが帰ってこなかった。だが彼がいなくても日常に支障はなかった。彼女は自分にだけ彼のことを話し、少しだけ泣いた。
そんな彼女は転校するという噂が何度か流れたが、一緒に高校を卒業した。今は短大へと進学し、まだあの街にいる。彼のことが忘れられないのか、当分離れる気はないと言っていた。
茶髪のクラスメートとは事件を機に仲良くなり、連絡を取り合うようになった。一見不良のような彼女は、教育大学へと進んだ。周囲は意外だと騒ぎ立てたが、驚くようなことでもなかった。彼女はメールでこっそりと将来の夢を教えてくれた。
悪友の行方は知れない。卒業式で別れて以来、姿を見ていない。時折、思い出したようにメールが入るが、居場所だけは言わなかった。それでも元気でやっているのは確かなようだ。
仲間たちのあの三月の日の笑顔が、思い出の中の校舎と重なった。そこには、いないはずの彼の笑顔もあった。
大学は思っていた以上に大変なところだった。どうせ滑り止めだから、とたかを括っていた自分が浅はかだったとしか言えなかった。
講義は毎日、朝から夜まできっちり埋まっている。教官陣も真面目な人間が多いのか、しっかり出席を取る。学籍番号順に名前を呼ばれて返事して。いつもそんな光景から講義が始まった。代返を頼めるような友人もまだできず、一回でも休めば単位は出さないと脅されれば真面目に行くしかない。もっとも、迂闊にサボると講義の内容がわからなくなりそうで怖かった。ついていけなくなれば、あとは堕ちていくだけだ。留年か、最悪中退。
一年次のうちは実習科目が少ないことだけが救いだった。二年次になったらどうなるのだろう。考えるだけでも恐ろしい。
理系学部は遊べないと言っていた進路担当教師の言葉を思い出す。
肩を落として帰路を辿る。「忙しい」が口癖になりそうで、溜息が出る。アパートまでは歩いて数分の距離だ。引越し翌日に見つけた裏門から出て、両側を高いブロック塀に囲まれた道を真っ直ぐに進む。大学と住宅地に挟まれたこの道はとても細く、車なんて通れそうにもない。おまけに街灯も少ない。昼でも薄暗く、漂う空気が寒々しい。近道でもなければ通らないような道だった。実際、前にも後ろにも歩いている人影は見えなかった。
小走りに道を進む。
みすぼらしい野良犬がいた。毛につやがなく、ところどころ抜け落ちていた。垂れた顔の肉が、歩くたびに揺れた。よく見れば中型犬よりも一回りくらい大きい。骨が見えそうなほどに痩せていてとても貧相だ。
一瞬、お互いに足が止まる。
しかし、犬はこちらを一瞥しただけで、すれ違って行った。生気の無い足取りが、先が短いことを物語っていた。
聞こえるカラスの鳴き声が葬送曲のように陰気臭かった。
そこに別の声が混じった。
犬の吠え声だった。
何だろう、と振り向くと、あのみすぼらしい犬が黒い影に向かって牙を剥いていた。
訂正。
黒い影ではない。黒い身体だった。
全身に黒い体毛が生え、粗末な服を着ている。二本足で立ち、人に似た姿だった。鼻先が大きくのびている。耳が前向きにピンと立ち、口は大きく裂け、鋭い犬歯を剥き出しにしていた。あれは、笑っているのかもしれない。
犬面の人間様のものが足を振り、犬を蹴った。甲高い鳴き声を上げて犬はボールのように飛び、ブロック塀に叩きつけられた。ぐったりと身を横たえた姿はゴミにしか見えなかった。
犬面はこっちを見ている。背中を汗が伝った。もう出会うことがなかったはずの存在を見て、心臓が跳ねる。どうにも現実を否定したがる頭に反して、身体はすぐに興奮状態へと移行した。まるで、二年のブランクなど何でもないと主張するかのように。握った手にも汗をかいている。
そいつの名前は知っていた。
「コボルトかよ」
呟き、無意識に右手が左手へと伸びていた。反応したまでは良かった。素の腕をつかみ、そこにはもうないことを知る。その一瞬が命取りだった。
コボルトはあまり素早い魔物ではない。だが、それでも普通の人間よりは早い。動物特有の俊敏さで詰め寄り、右手の棍棒を振るった。
ガードする間もなく肋に入り、そのまま吹っ飛ばされる。骨がみしりと鳴るのが聞こえた。受身も取れなかった。背中に激痛が走る。犬と同じだった。
衝撃が大きく、目の奥がちかちかする。立ち上がることもできずに、ずるりとその場にへたりこんだ。
もう、守護天使の加護もない。
何も持たない普通の人間に戻ったことを今更ながらに自覚する。同時に無力感への情けない思いがつのる。
こんなところで、コボルトごときにやられるのかよ。
つまんない終わり方だな、と自嘲する。
魔物の気配だけは感じていた。
まったく、こんなんじゃ悪友に笑われる。
最後の悪あがきに、持っていた鞄を無茶苦茶に振った。遠心力で加速する鞄は、しかし手応えがなかった。
軽い左腕が憎らしい。あの、プログラムさえあれば。
観念して目を閉じた。人は死の瞬間に走馬灯が見えると言う。今までの人生が刹那の内に流れて行くのだ。十八年の人生はそれこそ短いだろう。だが、目蓋の裏に映るのは真っ暗な世界だけだった。
一際大きい衝撃音。
死んだ、と思った。身体の感覚がまだ抜けないけれど、いずれ魂も霧散してしまうのだろう。間違っても魔界には行きたくないし、ゾンビにもなりたくない。
視界は暗いままだった。
そうだ、目を閉じたのだ。外を見ろ、と意識に命じた。
目蓋が持ち上がった。
「大丈夫か?」
男がこちらを覗きこんでいた。短い髪がブラシのように立っている男だった。歳は同じ頃か、少し上か。
「おい」
頬を軽く叩かれる。慌ててうなずく。
「よし、大丈夫だな」
うなずいた拍子に見えた男の右手にぎょっとした。おおよそ、日常生活とは無縁なもの、黒光りする銃が握られていた。
「え、ああ」
男は苦笑いし、そそくさと上着の内側に銃を入れた。
傍らにはもうひとり、背の高い男が検分するようにこちらを見下ろしていた。細長い包みを携えている姿は、同性ながらかっこよく見えた。
「怪我は大したことない。せいぜい打撲だろう。赤く腫れ上がってくるだろうから、帰宅したら冷やしておけ」
澄んだ低音でそれだけ言うと、腕を組んで塀に寄りかかった。むっつりと黙り込み、無表情に反対側の壁を見つめている。
短髪の男は立ち上がり、尻を軽く叩いて埃を払った。
「ここを通るのはやめたほうがいい。空間が不安定で、すぐに異界化する」
「異界化?」
掠れた声が喉の奥から出た。そして痛みに咳き込む。
「お化けが出やすいってことだよ。さっさと家に帰って寝な。こんなの夢だと思ったほうが、お前にとっても、俺たちにとっても都合がいい」
口を開き、あのコボルトは、と言おうとしてやめる。男の向こうにはコンクリートの壁しか見えない。どうなったのか、何となく想像がついた。
「あんたたち、何者だ」
「ただの祓い屋だよ」
男はおどけたような口調で言い、笑ってみせた。鋭い目つきが意外なほど人懐こくなった。
「じゃ、早く帰れよ」
「ちょっと待て」
男たちが向けた背に、半分無意識に声をかけていた。そんなことをした自分自身に驚いた。
無知は罪悪であり、幸福なり。
そんな言葉を思い出した。
「どうして悪魔が出現するんだ。ここは魔界じゃないのに、どうしてコボルトがいるんだ」
振り向いた二人の顔は凄味を増していた。幾多の修羅場を乗り越えてきた顔だと、本能的に察知する。身体が震え上がったような気がした。
「どうしてあれが悪魔だとわかる。なぜコボルトだと知っている」
ぶつけた疑問が疑問として返ってきた。どすのきいた声。さっきと同じ男が発しているものとは思えない。短髪の男は懐に手を入れた。銃把を握っているであろうことは容易く想像できた。
「俺は、」息を呑む。「軽子坂高校からの帰還者だ」
男は顔色を変えなかった。背の高い男は無表情のままだった。
「だから何だ。理由になっていないぞ」
「魔界に行ったことがある。魔界にはあんな奴らがごろごろいた」
「魔界、ね」
「急に放りこまれたんだ。俺は帰るため、悪魔と戦ったんだ」
言いながら、自分でもまったく要領を得ないと感じていた。ばらばらの破片を羅列していくことしかできない。多分、混乱していたのだろうと思う。
「全然知らないわけじゃない。この世界とは別に魔界という世界が存在すること、あんな悪魔がたくさんいることを知っている。ありえないんだ。あの世界はこことは独立していて、強大な力を持った誰かが無理やり繋ごうとさえしなければ、悪魔がこちらに侵入してくることはない。コボルトはそう強い悪魔じゃないから、何かの拍子にこちら側に来てしまうことがあるかもしれない。だけど、それが自然発生的に起こることならば、もっともっと弱い悪魔がその辺にいてもおかしくないじゃないか。そう、悪魔召喚プログラムを使えばまた別の話だ。あのプログラムがあれば全てに説明がつく」
一気にまくしたて、咳き込んだ。まだ喉が掠れている。
言ってから自分の失態に気付いた。証拠もなくこんなことを言ったらただの電波野郎だと思われるかもしれない。妄想の中に浸り、踊りつづける狂人と間違われてもおかしくなかった。
「名前は?」
「え?」
「名前だよ」
苛立たしそうに短髪の男が言う。あの恐ろしい表情はどこかへと消えていた。
「ヒロト。階堂、空都」
「OK、ヒロト。俺たちは力を持たない人間は求めていない。足手まといだからだ。お前さんはコボルトごときにもやられてしまうような素人だ。なのに、素人のくせに変なことは知っている。そんな人間は扱いに困る。わかるな?」
うなずく。
「俺たちは力を持っている。純粋な力だ。化物も殺せるし、人間だって殺せる」
男の右手に力が入ったように見えた。
「力は行使するためにある。俺たちは邪魔だと判断すれば、それを使う」
言外にお前なんかいつでも殺れる、と言われている気がした。実際、この二人にかかればあっさりと物言わぬ肉の塊を作り出すのは容易なことだろう。
「一つだけ聞こう。あのコボルトと出会った時、お前が求めたのは何だ? 力か?」
「悪魔召喚プログラム」
ためらわず、男の目を真っ直ぐにとらえてはっきりと言った。
「共に戦う仲間だ。俺は力はいらない」
そっと左腕に触れた。生身の腕は細く、頼りなかった。もういらなくなったはずの力、自らの意思で失ったプログラム。かつてここにあった機械は仲間たちとの信頼の証であり、自分の自信でもあった。
アームターミナルの重み。キーボードの感触。ゴーグル越しに見える世界。
戦いの最中はいつも厳しい仲魔たちがふと見せた、穏やかな顔。
記憶の中に片隅に留まっている。それら全てが懐かしい。
「仲魔は戦うための使い捨ての駒?」
「違う。かけがえのない友だ」
そんな言葉が自然と口をついて出た。
耳が赤くなった。言ってて恥ずかしいけど、これが自分の本当の気持ちだった。
「その言葉に偽りはないな」
左腕を握り締めたまま、うなずく。
「軽子坂高校の帰還者か。まさかこんなところで会えるとはな」
男は表情を緩めた。懐にいれた手を空で出し、身振りだけでついて来い、と指示した。
身体中の鈍痛をこらえて、立ち上がる。膝や尻についた砂を払い、散らばった鞄の中身を拾い集めた。変えたばかりの携帯電話に傷がついてる。苦笑するしかなかった。
野良犬がひょこひょこと向こうへ歩いていくのが見えた。わずかに足を引きずっているものの、無事であるようだ。お互い、運が強いとみえる。
さっさと歩いていく男たちの後を追う。
あの非常階段への扉をくぐった時と同じ気分だった。
今、ここで何も見なかったことにすれば引き返せる。男たちに別れを告げ、自宅へ向かってダッシュする。それだけのことだ。コボルトなんていなかった。コボルトなんて知らない。余計なことに首を突っ込むほどお前は暇な人間だったか。またあの悪夢を見たいのか。自問する声。振り返るなら今だ。
だけど、見て見ぬ振りができるほど調子のいい性格もしていない。もう後戻りはできないとわかっている。戻る気もない。
非常階段の向こうに見える深淵なる世界。金属バットを握り締めて臨んだ世界はもっと広く、もっと深いものだった。未知、という言葉の短さ、響きの軽さが憎くなるくらい。
カラスが一声鳴いた。
不機嫌そうに女がこちらを見ている。化粧っ気のない顔に大きな眼鏡をかけている。長い髪を輪ゴムで束ね、白衣の背中に垂らしていた。キーボードの上に置いた右手の薬指に細い銀の輪がはまっていた。
「どうだった?」
と問う女に、男たちは首を振って答えた。
人をここまで連れてきた二人はさっさと適当な居場所を確保し、くつろいでいる。背の高い男は入り口に近いパソコンデスクの前で我関せずを決め込み、ものの数秒で船をこぎ始めた。短髪の男は冷蔵庫からペットボトルを取り出して飲んでいる。
どうしていいのかわからず、立ち尽くす。
女はまだこちらを見ている。
モニタ上にはとても細かい文字の羅列。目で追うだけでも頭が痛くなりそうな文字群が表示されていた。
ここが院生室と呼ばれる部屋であることは知っていた。広いキャンパスマップの、各学部棟見取り図の中に細かい部屋が散らばっていたのを覚えている。
あの後、男たちは裏門へと引き返した。一度もこちらを振り返らずに早足で歩いていく。鞄を抱えて、小走りになりながらついていくのがやっとだった。まだ不案内なキャンパスの中を目的地も知らず、正体も知らない男二人を頼りにして歩くのは、少々無謀だったかもしれない。しかし、虎の穴に入らなければ得られないものもあるわけで。
たっぷり歩き回った挙句、辿りついたのがこの院生室だった。社会学部第一棟の二階の端の部屋。隣に立つ第二棟に比べると、大変歴史を感じる建物だった。打ちっぱなしのコンクリートの壁には盛大にひびが入り、山の斜面が近い北側は蔦が三階まで伝っている。入って大丈夫なのかと疑うような、そんな棟だった。
今、こうやって立っているだけでも、剥き出しの配管が落ちてこないかと不安でたまらない。
「あんた、誰よ」
声をかけられた。闖入者への好奇心は全くない。かと言って警戒心もない。ただ邪魔されたのが気に食わない。表情と同じ、そんな不機嫌な問いかけだった。
「階堂空都、です」
何か言えばどうにかなると思って、名前だけ言った。この部屋の空気が語尾を丁寧語にした。短髪の男をちらりと見る。不親切な案内人は、部屋の中央に置かれたテーブルの上で銃の分解を始めていた。外した弾倉を無造作に黒い天板の上に置く。美しいフォルムのオートマチックが、簡単に金属の破片に変わっていった。色んなパーツに分かれていく様は、パズルを解いているようだった。
「そいつ、軽高の帰還者だってよ」
男の一言に、女の目の色が変わった。不機嫌さが消え、研究者特有のあの好奇の光が宿る。
「探してただろ」
へえ、と漏らして女は立ち上がった。座っているとわからないが、結構背が高い。白衣のポケットに手を突っ込み、ゆっくりと近づきながら嘗め回すように俺を見る。
美術館に飾られた抽象彫刻になったようで、決まりが悪い。
「君が」
顔に鼻先を近づけてくる。眼鏡の奥の瞳に自分の目が映っていた。
ひ、と言いかけて飲みこむ。まだ痛みが残る脇腹をつかまれた。
さわさわと手を動かしながら身体を点検していく。服の上からとは言え、他人の指先が全身を這っていくのは気持ちの良いものではない。くすぐったくて、今にも笑い出してしまいそうだ。
「どこにでもいる男の子みたいだけど」
この人は軽子坂高校出身者にどんな偏見を持っているのだろう。頭に角が生えてたり、先のとがった尻尾がついてたりすると思っているのだろうか。あの事件に遭遇してしまったというだけで、特に他の人間と変わったところなんてないのに。
助けを求めようにも、頼りになりそうな人間がいない。一人は包みを胸に抱いてすっかり熟睡しているし、一人は銃をいじることに夢中になっている。しかも、この二人が味方になってくれる保証はまったくと言っていいほどない。切りぬけるなら自分の力で。今更ながらに自分が孤独な異邦人であることを知る。
男はトントン、と小さな金属でテーブルを叩いた。
「例のプログラムのことも知ってたぞ」
女の口元が歪んだ。それが喜びの顔だと気付くのに少しかかった。そのくらいへたくそな笑顔だった。にたり、とかそんな擬音語が当てはまりそうだ。
「あなた、悪魔召喚プログラムを知っているのね?」
両腕をつかまれる。鼻息がかかりそうなほどの距離に堪えられず、目を背けた。
「ええ、まあ」
曖昧な肯定を返すと一層身を乗り出し、
「使ったことは?」
ちょっとだけ躊躇ってから、小さな声で答えた。
「少しなら」
「和鳴、偉い!」
女は身を翻した。気持ちいいくらいの快音が響く。思い切り背を叩かれた男は、息を詰まらせて咳き込んでいた。
「あんたにしては上出来よ。軽子坂高校からの帰還者、そして悪魔召喚経験者。条件は揃ったわ」
ウキウキと、実に楽しそうに笑う。コンクリートの壁に反響し、部屋を笑い声が満たす。大股に室内を歩き、眠っている男の両肩を叩いた。矢部くん、快挙だわ、と男に話しかける。眠りを邪魔された男は不愉快な顔で女を一瞥し、そしてまた目を閉じた。
呆然と、気違いのように笑い続ける女を眺める。
まったく、何が嬉しいのだかわからない。この時、今までで最も強く、ついてきてしまったことを後悔した。猛烈に、回れ右をして室内から出て行きたくなった。もし、素直に帰してくれるならの話だ。
笑いながらデスクの中を引っかき回し、何かを探している。ここからも紙束ばかりで埋め尽くされた引き出しが見えた。
「少年、名前は?」
さっきも言ったのだが。
女は手にクリップボードを持ち、指先でペンを回している。
「階堂空都です。階段の階に、お堂の堂。名前は空の都と書きます」
「所属と学年、高校卒業年は?」
素直に答えると、クリップボードの上に書き留めていく。
「ということは、軽高消失事件当時は高校二年生ね」
勝手に何かを納得しながら、こちらも見ずにメモを取り続ける。
「悪魔召喚プログラムはどうやって手に入れた?」
「あの、俺、どうしてこんなことになってるのかわからないんですけど」
質問を遮ると、女はまたあの実に不機嫌そうな顔に戻った。おもちゃを取り上げられたこどもと同じだ。
「ついて来いと言われたからついて来ただけです。どうしてこっちの世界にコボルトが出現するのか、説明してもらえると思ったんだ。でも、何にもわからない。俺はあなたが何者かも知らないし、どうしてこんな質問をされるのかもわからない。俺が軽子坂高校出身で悪魔召喚プログラムを知っていたら、どうだって言うんです。それはもう過去のことだ。」
「過去は経験よ。消えて無くなるものじゃない。未来への糧。本当に終わるのは本人が死ぬ時だけね」
肘をつき、指先で器用にボールペンを回す。ずれた眼鏡を押し上げて微笑んだ。なんだ、普通に笑えるんじゃないか、と安堵した。
「すっかり忘れててごめんね。私は佐倉依江。ここの社会科学研究科の修士二年よ。専門はかなり情報工学寄りの情報社会学。あと記号論も少しね。わけあって悪魔召喚プログラムについて調査してるの」
好きなところに座って、と言われ、テーブルを挟んで依江と向かい合う位置に座った。実験室にあるような丸椅子だった。ネジが緩んでいるのか、ぐらぐらとして落ち着かない。
「こいつらは私の手伝いをしてくれてるの。名前聞いた?」
首を振る。やっぱりね、と言いたそうな表情を短髪の男に向けた。相変わらずそっぽを向いて銃の部品をいじっている。
「そっちが、」
と、依江は眠り続ける男をペンで指す。
「矢部修一。ああ見えても医学部の四年。こっちが、」
今度は傍らにいる男を指す。
「御形和鳴。こいつもこう見えて法学部の三年」
どこの世界に銃を携帯する大学生がいるのだろう。紛争絶えない中近東ならばいざ知らず、ここは戦争を放棄した平和憲法の国、日本だ。日本国民にしてはありえないくらい慣れた手つきで武器を扱う御形を見た。素知らぬ顔で自分の仕事を続けている。
依江は勝手に話をすすめた。
「君みたいな人を探していたの。悪いけど、協力してくれないかな」
これまた研究者にありがちな、全然悪いと思っていない、それどころか有無を言わせぬような口調だった。
どうしようかと悩んでいると、御形が目配せしてきた。
逆らわないほうがいいぞ。
ガラクタにしか見えなかった金属片が、彼の手の中で銃の形に組み上がっていた。
「協力と言われても、何を協力すればいいんでしょう」
「承諾してくれないと教えられない」
依江は席を立ち、またデスクの引き出しを開けた。今度は紙だらけの引き出しではない。一番下の段の大きい引出しだった。白衣のポケットから鍵を出し、取っ手の側の小さな穴に差し入れる。軽く手首を捻ると鍵は簡単に開いた。
「その代わり、これをあげる」
重い音とともに開いた引出しの中に手を入れる。両手で抱えて取り出したのは、忘れることのできなかったものだった。
厚手のグローブに取りつけられた、肘まであるスライド式のスモークグレーのカバー。必要最小限のキーだけを配置した小型のキーボードが中に見える。しっかりと固定できるようつけられたバンドが幾本か垂れ下がっている。キーボードから伸びたケーブルが掌大の黒いボックスへと繋がってる。ボックスからさらに二本コードが伸びており、辿るとそこにはゴーグルがある。
ハンドヘルドコンピュータ。あるいはアームターミナルと呼ばれる。腕に装着して使用する携帯用コンピュータだった。かつてこの左腕にあったものと寸分違わない。
「どう?」
答えの代わりとして、震える手で差し出されたアームターミナルを受け取った。
「いいんですか?」
「いいよ。君が使えるならそれに越したことはない。私たちには使えないものだから。」
「でも」
「いいの。立ち上げてみて」
本体をテーブルの上に置き、ゴーグルだけをつけた。ベルトを調節しなくても頭にしっくりと馴染んだ。レンズ越しに見える世界に懐かしさを感じる。
電源を入れる。ゴーグルの内側に緑色の文字が浮かぶ。それは突然空中に文字が現われたようにも見えた。カタカタと本体が軽い音を立てる。文字列が幾つも浮かんでは消えていく。最後に『RUN Digital Devil Summon System』と現われ、システムの起動が終わった。
キーボードに触れる。ちょうど視界の下半分にメニューが現われた。同じだった。
メニューの『STATUS』を選び、ハードディスクに納められている仲魔のデータを見ようとした。『no data』と表示される。予想通りだが、記憶領域はまったくの空になっている。
「当たりか」
依江が感心したように見ていた。彼女に対して解析をかけてみるが、『no data』と表示され結果は得られなかった。悪魔に対してするものだから、当たり前なのだけど。
「それ、あなたの物だったみたいね」
ゴーグルの内側に流れる文字を眺めているようだった。
「そのアームターミナル、とある筋から入手したんだけどね、誰にも動かせなかったんだ。操作するのはもちろん、電源を入れることすらできなかったの。多分、所有者認識システムが入っているんだと思う」
いや、と首を横に振った。八幡先生からこれをもらった時はただのパソコンだった。誰でも動かせて、誰にでも操作できるものだった。ちょっと気弱な高校教師が作った、おもちゃみたいなものだ。
「それじゃあ、誰かがそういうシステムを入れたんでしょ」
依江がキーボードに手を伸ばしてきた。カーソルキーを何度か押す。しかし、目の前に浮かぶカーソルはぴくりとも動かなかった。
今度は自分で押す。
何事もなく、三角のカーソルが下へと動いていった。
「どこから手に入れたんですか」
「それは教えられない。うちのお客絡みってだけ言っておくね」
「そいつんち、リサーチ会社なんだよ」御形が外へ向けて照準を定めていた。もちろん、引き金は引かない。何度か置いては構えを繰り返す。「いわゆる興信所」
「そういうこと。守秘義務があんの」
許してね、と軽い謝罪の言葉。
「前からそのプログラムの存在は知ってたのよ。でも実物は見たことなくて。やっと実物が、と思ったら今度は動かせないし。軽高出身者なら動かせるって聞いて探してたんだ」
でも、と思い返す。佐藤は、プログラムがメールか何かで送られてきたと言っていたような気がする。あの頃、無作為に配布されていた可能性もある。だったら今でもどこかに残っていそうなものだ。そう聞くと、
「残念ながら、プログラムを受け取った人の九割は不気味に思って削除してしまったらしいわ。私でも多分消すね。『Devil』なんて名前がついたプログラム、ウィルスかと思うもん。それに、配布元がきれいに消えて無くなってる。どうにかコピーを手に入れるにも、持っている人を探すほうが難しい。こんな物騒なプログラムを使うのはわけありの人ばっかりでしょ。今では悪魔召喚を生業にしているような人もいるんだけど、そんな召喚師のコミュニティがまた閉鎖的で」
プログラムも持たない一般人は非常に入りづらいようだ。発達したネットワークの中であっても、田舎のムラ社会は存在するということだ。ちなみに、そのネットワークはインターネットとはまた別で、いわゆる草の根ネットというやつらしい。一昔前、パソコン通信が盛んだった頃にはあちこちにあったローカルなネットワークだという。ネットワーク名はDDS-NET。もっとも、二年前、唐突に運営者がいなくなり、今は別の人が運営を続けているということだ。実家が興信所をやっているだけあって、背後関係を調べるのは得意なようだ。
「ところで、そのプログラムの原理は知ってるよね?」
また、首を横に振る。元々は電算部の佐藤が拾ってきたプログラムなのだ。それを譲り受け、使っていただけ。それまでパソコンなんてゲームができる機械くらいにしか思っていなかったのに、仕組みなんて知るはずもない。そもそも、わけのわからない文字の塊がプログラムと呼ばれ、動作させることでどうしてゲームが出来たり絵を書けたりするのか、不思議に思っているくらいだ。
「使えるのに知らないのか。まあ、いいわ。悪魔召喚プログラムっていうのは、儀式を行わずに召喚ができるっていう画期的なプログラムなの。古来より召喚術というのはあったんだけど、それにはとてもとても時間がかかるのよ。おまけに制約がきつい。本人の魔術的素養もあるんじゃないかな。何日も何日も呪文を唱えていなきゃいけないとか、新月の夜でなければならないとか、新生児の生贄が必要とか。ちっこい弱小悪魔だって必要要件が揃ってなければダメなんだから、強大な悪魔だったら生半な儀式と精神力じゃ喚べないものよ。何しろ、この世とあの世を強引に繋いで穴開けちゃうようなもんだからね」
思い浮かんだのは、釜の中で奇妙な色の液体をかき混ぜる魔女の姿だった。絵本によくいる、しわくちゃの顔で鉤鼻を持ったばあさんだ。
「魔方陣をちょっと間違えただけで失敗するっていうのもよくある」
よくあるのか。
「今では錬金術とか宗教儀式とか黒魔術とか呼ばれてるんだけど、古い文献を漁ればこんな話はゴロゴロしてる。人であらざる者を呼び出すなんて話、ちょっと探せば全世界のどこにでもあるから。そんな一連の召喚儀式をアルゴリズム化し、コンピュータ言語に置き換えたのがそのプログラムなのよ。プログラムを使うというのが、イコール儀式を行うことになる。コンピュータの中で、言わば圧縮儀式を行うの。これにより、儀式の失敗もなく、時間の短縮もでき、誰でもお手軽に悪魔召喚ができるようになったってわけ」
「じゃあ、コンピュータの中に悪魔が入っているわけじゃないんですか」
「それよ。それが私が知りたいことなの」
依江が指を鳴らす。
「儀式を圧縮して詰めこんだ物のはずなら、対象の悪魔に関しての情報は何も記録されない。そうでしょう? 魔方陣を書いて、供物を配置して、なんていう悪魔召喚の手続きの仕方を字面で見たって、その悪魔は今足が痺れてる、なんてわからないでしょう」
悪魔も足が痺れるのだろうか、とぼんやり見当違いのことを考える。コボルトが正座している様子を想像した。何だか不自然でおかしい。こみ上げる笑いをこらえた。
「わかったとしても、せいぜい名前と好きなものくらいよ。供物は大体その悪魔の好物だからね。でも、そのシステムの」と、アームターミナルを指した。「インタフェースの上では悪魔の名前や属性、現在の状態までわかる。まるで悪魔が二値化してメモリに収まっているかのよう。儀式様式からどうして悪魔の情報が読み取れるのか。従来の召喚儀式では絶対にわからないことよ。儀式をしていて途中で召喚できる悪魔がわかるのならば、召喚事故は避けられる。失敗かどうかわかるもんね。もしかすると、儀式そのものを加工することが魔術的に、あるいは情報的に作用しているのかもしれない。手続きの明示化、二値化、圧縮化することで何か新しい情報が生まれるのではないか。私はそう考えたの」
だけど、と唇を湿した。
「実際はそのプログラムはまだまだ秘密が多い。ブラックボックスになってて中身がわからないんだよね。プログラム自体にえらく複雑な暗号化が施されてるんだもん。解けない暗号なんて初めてよ。暗号化の技術だけでも天才だわ。本当、こいつを作ったやつは天才としか言いようがない。ハードウェアは何でもいいのよ。インストールできれば、その辺にあるミニノートでだって実行できるみたい。中に入ってるプログラムが特殊すぎるんだよね。何度も同じの作ろうとがんばったんだけど、みんな失敗に終わった」
依江は背後にあるパソコンに目をやる。黒い背景の上を色鮮やかな魚が泳ぎ過ぎていく。
そんな絵が流れていた。
「一番わからないのが、交渉で仲魔になった悪魔がコンピュータに吸い込まれていく、という現象ね。もちろん話に聞いただけだけど、そんなことありえないじゃない」
そうか。魔界にいた時はこんな魔術的なことも当たり前のことかと思っていたけど、情報工学の観点から考えるとそれはとても非現実的で、不可思議なことである。
「まったく、こんなに科学が発展した現代に魔法のようなもんがあっちゃいけないのよ」
悪魔の存在を肯定した女はそんな言葉を吐いた。