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ギリギリで駆け込んだ講義室にはまだ教授の姿はなかった。家を出たときはもう無理だと思っていたが、どうにか間に合ったようだ。
上がった息を整えながら空都は空いている席を探す。午前中の大講義室はさすがに空席が目立つ。初めの一、二回は今の倍の人数はいただろうか。入学式から三ヶ月。同級生たちは早々に大学生活に慣れてしまったようで、必修の教養科目の講義にも関わらず、自主休講者は毎週増えていくばかりだった。
階段状になった講義室の、ちょうど真ん中あたりが空いていた。黒板も見え、先生の声もよく届くが近すぎない。勤勉とは言い難い空都にはいいポジションだ。机と一体になった木製の折りたたみ椅子を下げ、ようやく資料と教科書で重いカバンを下ろした。
「階堂、ここいいか?」
と、同級生が声をかけてきた。空都の返事も待たずに隣に座り、教科書とノートを広げる。蓮田は入学してからできた友人の一人だった。女にでももてそうな端正な顔立ちだが、身体は決して細くない。がっしりとした体格をしている。彼と空都は入学式で勧誘されたバスケサークルに一緒に入った仲である。
「今夜のサークルは出られそうか?」
そう聞かれ、少し考えるフリをした後に、
「すまん。今日も行けそうにない」
片手を挙げて謝った。
「先週も来てなかったよなぁ。お前、最近付き合いわりぃぞ。バイトでも始めたのか?」
「まあ、そんなもんだ」
そう、バイトと言えなくもない。小遣いにもならない雀の涙ほどだが給料をもらっている。百パーセントボランティアでやっているわけではないのだから、仕事と言っても差し支えないだろう。
「先輩たちには謝っておいてくれ。一段落ついたらまた顔出すからさ」
「それならいいけどさ。自分らのせいで来ないんじゃないかって心配してたぞ」
サークルの先輩連中は決して悪い人たちではない。体育会系ながら、無理強いするところはないから付き合いやすくてむしろ好きなほうだ。空都が持っていた運動部のイメージは彼らが払拭してくれた。
生あくびをかみしめながら空都はもう一度蓮田に謝罪した。
空都の足が遠のいているのは仕事が忙しすぎるせいだ。どうしても夜の仕事になることが多く満足に家に帰れていない。ここのところ寝不足が続いており、毎日きちんと講義に出ていることすら奇跡としか思えなかった。疲れは溜まっていく一方で、今の生活が続けば身体が参ってしまうことは目に見えている。そのためにも早くケリをつけたい――
ふと、蓮田越しに見える窓の向こうを金色の頭が横切ったような気がした。
空都は懐かしい顔を思い出し、そちらに目を向ける。だが、すでにそこに金髪の人物はいなかった。
少し遅れて教官がやってきた。小太りの大学教授は汗を拭きながら資料を配布する。ガンガンに冷房が効いた講義室はむしろ寒いくらいだというのに。熊を思わせるその姿は愛嬌たっぷりで、ひそかに女学生に人気があった。空都もほほえましく教官の姿を眺める。そのしぐさと姿からは、この講義の試験の厳しさはうかがい知る由もない。サークルの先輩たちから試験のことを聞いていなければ、空都も試験日にしか来ない学生の一人になっていたかもしれない。
突然、ぐらりと頭が揺れた。頭蓋の内側にじわりと闇が広がるような感触を覚える。一瞬重さをなくした脳が激しくぶれた。三半規管が振るえ、胃から酸っぱいものがこみあげる。焦点が定まらず、揺れているのが自分なのか周りなのか確信をもてない。
例えようのない不快感は魂を揺さぶり、暗い情動が頭をもたげる。孤独、絶望と悲しみ、誰に向けられるのか知らない憎悪。深い深い井戸に突き落とされたらこんな気分になりそうだ。何とか気を落ち着かせようと理性が働きかけるが、混乱に占められた脳はそれすら受け入れようとしない。本能が『何か』を察している。無意識の防衛本能が逃避として現れている。だったらいっそのこと気絶させてくれ。空都はそう思ったが『何か』は覚醒していることをを強制する。
その時だ。
どすん、と地面が鳴動した。
それで終わりだった。不快な頭痛は消え去り、明瞭な思考と視界が戻ってきた。伏せていた顔を上げる。辺りを見回そうとして、無意識に鞄に伸びていた右腕に苦笑した。
「何がおきたの?」
「地震?」
あちらこちらで、空都の隣からも声がする。あの豪気な男も謎の力に屈していた。呆けた声で何事か呟いている。それにしても皆ひそひそと声を低く押さえているのはなぜなのだろ
う。
不快感は消えたが嫌な予感は残った。去ったはずの黒い混乱を忘れられないのか、右手がどうしても鞄から離れてくれない。
「くそ、頭いてぇ」
隣に座っていた蓮田が毒づいた。出ていく何かを押さえこむように頭を抱えている。朝苦労してセットしたのであろう髪がぺしゃんこに潰れていた。
見れば周りは皆似たような格好で机に伏せている。平気な顔でいるのは空都くらいだ。
青ざめた顔がずらりと並ぶ。教壇から見ればさぞや嫌な光景だろう。異様な様子に麻痺しかけた頭が救急車とつぶやく。慌てて携帯電話を取り出し、画面を
開いた。
圏外の二文字があった。
「お前、平気なのか」
蓮田の息は苦しげだ。先ほどまでの元気が嘘のように消え、急激に顔がやつれて見えた。声を出すのもやっとのようだ。
「ああ。特に何も」
平然と応える自分が何だかアホらしかった。普通でいること自体が特殊なようで気まずさすら覚える。
嫌な予感がすることは言わなかった。確かに空都も妙に息苦しいものは感じていた。プ
レッシャーとも言うのか、空気が重い。ねっとりとした湿り気が身を包む。
やけに外が暗い。今日は朝からいい天気だったとはいいがたいが、それにしても暗すぎ
る。大雨の直前の夜のような曇天。グレーのビロードが風にたわむ。だが誰にも電灯をつける元気がなかった。薄暗い階段教室で人々が苦悶し、のたうっている。
ふと似たような光景を見たことがある気がした。一枚の絵が脳裏に蘇る。突如真っ暗になった空、惑う人々。人々が苦しんでいる点を除けばまったく同じだ。
あの、軽子坂高校が消失した時と。
空都の肌が粟立った。予感はすぐに悪寒となり、鞄に添えた手に知らず力がこもる。あの時と同じならば説明がつく。このたまらなく不快な空気は瘴気だ。
『階堂! 大講堂だ。今すぐ来い!』
アンテナが消失した携帯電話がそう叫んで切れた。蓮田が驚いた顔で物問いたげに空都を見る。何が言いたいのか容易く想像できたが、疑問に答えてやるつもりなどなかった。
空都は迷うことなく鞄を開く。中から緩やかな曲線を描くケースとゴーグルを取り出
す。ゴーグルとケースをケーブルにつなぎ、それぞれ頭と左腕に装着する。ケースの蓋を
開ければずらりとキーが並んでいる。キーを叩き、呼び起こす。ハンドヘルドコンピュー
タ、あるいはアームターミナルと呼ばれるそれを。
『RUN Digital Devil Summon System』
音もなくコンピュータが目覚める。スモークゴーグルの内側に緑色のメッセージが閃いた。それを確認すると、護身用と言うには大きすぎるアタックナイフを腰の裏に差す。途端、空都の気持ちが落ち着いた。今度こそ不快感が綺麗に消え去る。
大丈夫。
たしかな自信も満ちてきた。
「お前、それはいったい…」
痛みも忘れ、呆然と蓮田は半端な問いかけをつぶやく。
「悪い。そのうち説明する」
それだけを言い残し、空都は教室を後にした。
幸いなことに大講堂はすぐ近くだった。現在地、階段教室が集まっている講義棟とは渡り廊下でつながっており、外に出る必要がない。最も講義の少ない金曜朝一番のコマだった事も不幸中の幸いだった。廊下を走りながら片っ端から扉を開けていったが、どこの教室も空だった。扉のひとつには「本日休講」の張り紙があった。
無人の廊下を抜けると雰囲気が一変した。無機質な灰色の壁が続く講義棟とは異なり、開学当初からあるという大講堂は西洋建築風の独特な建物だった。ロビーの床には赤い絨毯が敷かれ、コリント式を模した柱が並ぶ。柱と柱の間にはところどころ劇場のような扉がある。講堂と名がついてはいるが普段使用されることはなく、式典や特別講義などを行う時のみ使用される特別なホールだった。
速度を緩めて歩き始める。サバイバルナイフを抜き、周囲に気を配る。素人に毛が生えた程度の空都じゃ、不意の攻撃に対処できる技量はない。それでも警戒しないよりはマシだ。アームターミナルのシステムはいつでも悪魔召喚に応じられるよう、アクティブな状態にしてある。不意打ちにあってもほんの少し時間をかせぐことができれば勝機はある。
ごり、と後頭部に硬い触感があった。
慌てて飛びすさり刃を向ける。しかし、無常にも白刃は宙に銀色の曲線を描いただけだった。
「足音くらい消せよ、アホ」
和鳴がそこにいた。愛用のハンドガンを握ってはいるものの、人差し指はトリガーから外してあった。
「そんなんでよく魔界を生き残れたな」
言い返さなかった。いや、言い返せなかった。空都があの悪夢のような魔界から生還できたのはひとえに守護天使の加護のおかげだった。感覚を広げ、魔界の住人ですら凌駕する力を貸してくれた存在があったからこそ、今の空都がある。帰ることを願った平和な生活に戻れた青年として。あるいは、かつて感じていた力の高揚を再び渇望し始めている青年として。
そう、力が欲しい。
悪魔召喚プログラムを操る事ができても空都本人は何の力も持っていない。圧倒的なパワーも摩訶不思議な魔法も思うがままに使うことができるが、力を振るうのは空都本人ではない。空都が召喚した悪魔たちだ。仲魔が戦う姿を後方で眺めている。そんな自分の何と無力なことか。
「警戒すんのが悪いとは言わねぇ。だけどな、この世界じゃお前は狩る側じゃなくて狩られる側なんだよ。しっかり覚えとけ」
「言われなくてもわかってるよ」
わかっているだけに余計苦しいことを目の前の男は知らない。悪魔と互角に渡り合えるだけの力を身につけた努力は認めよう。だが、いつの世も持っている者は持たざる者の気持ちなど理解しないのだ。
「じゃあなんでお前一人で歩いてんだよ。仲魔呼べよな。この前依江からディスクもらったんだろう?」
「もらったよ。ちゃんとこいつにデータ移したさ」
空都は左腕に巻きついたコンピュータの表面を軽く叩いた。
「かなり強力だから制御に自信がないんだ。それに俺への負担も大きい。うろつく程度で出していたら相手見つける前に参ってしまう。そのくらい強いんだよ。戦闘始まったらすぐ出すから気にすんな」
「お前が反応できるならそれでもいいけどな」
言って和鳴は銃の安全装置を外す。
「悪魔は?」
あえて表情を消して和鳴に聞いた。
「一通り見て回ったけどまだ姿は見ていない。あとはこの中だけだ」
と、和鳴は銃の先でオーク材の扉を指す。
「おそらく奴はここだろう。これだけの規模を異界化させる悪魔を喚ばなければいけなかったんだ。大講堂ならそれなりに広さがあって普段は無人。儀式するにはうってつけだな」
「どれだけの範囲が異界になったんだ?」
「構内ほぼ半分。社会学部がある向こう側の端から正門のあたりまで」
頭の中に地図を描く。入学してまだ半年も経っていないせいで全部をイメージするのは難しい。和鳴が言った範囲の中で、辛うじて大講堂がほぼ中央に位置していることだけはわかった。
「依江と秀一はまだだ。依江はいつものことだからしょうがないとして、秀一はあれでも医学生だからな。忙しいんだよ」そして短く息をつく。「ま、諦めろ」
いつも到着が遅れる依江は戦闘となると大して役に立たないから構わないが、秀一が来れないことはショックだった。剛剣使いの青年は、空都たち四人の中では最大の戦力だからだ。
「俺と和鳴の二人だけ……?」
「そういうこった。一応連絡は入れたから向かって来ているはずだけど、期待はできないな」
二人でどうにかするしかない。和鳴は言外にそう言っていた。
「頼むから俺の足だけは引っ張るなよ」
そんな何とも憎らしい一言まで付け加える。
「その言葉まんま返してやる。見てやがれ」
鼻息荒く言うものの、虚栄にすぎないことは本人が一番良く知っている。いざ戦いとなれば、足手まといにならないように立ち回るのが精一杯というところか。悔しいが和鳴の言うことは間違っていない。
ならば今できることをしようとコンピュータを操作しエネミーソナーを呼び出した。ゴーグルの片隅で赤いバーが激しく上下している。これだけ瘴気が渦巻いている場所だ。反応が強力すぎてソナーが使い物にならない。
「和鳴、そろそろ動かないか? いつまでもここにいてもしょうがないよ」
ソナーをオフにする。その途端、ゴーグル越しに見える景色が凪いだ海のように静まり返った気がした。前からここは静かだったはずなのに。予感なのだろうか。ぞくりとした寒気が背筋を襲う。
「なあ、和な……」
呼びかけ、振り返り、思考が止まった。
空都が噛み付いた男はまたもこちらに銃を向けていた。そして何の躊躇いもなく空都に二の句を告げる間も与えずに発砲した。
「うわ!」
身体が反応できなかった。頭は視覚情報から男が本気だと判断している。それにも関わらずその場に棒立ちだった。唯一取れた臨戦態勢は咄嗟に目を閉じなかったことだけだった。
無意識に止めていた息を吐いた。どくんどくんと心臓が強く脈打つ。一瞬にして緊張は頂点へと達していた。
至近距離にも関わらず弾は逸れていた。
和鳴の腕は知っている。こんな近くで易々と外すような男ではない。生身の人間ならば瞬く間に命を奪えるだけの力量がある。
「てめぇ何す……」
怒りに声を上げる。が、再び放たれた銃声が続く言葉をかき消す。
「そんなところでこそこそしてんなよ。てめぇはストーカー予備軍か?」
柱頭に繊細な装飾を施した柱を次々と弾が穿つ。計六発。空都のずっと後ろにあった柱は今や痛々しいひびを纏っていた。轟音の後の静寂に和鳴の荒々しい挑発が響く。
「それともビビって立てなくなったか? 漏らしても俺は気にしねぇが、てめぇの始末はてめぇでしろよ!」
「はん。弱い奴ほど良く吼えんだよ」
空都でも和鳴でもない男の声。柱の後ろから細長い影が現れた。
「お前……」
空都は絶句した。
脱色した金色の髪に着崩した黒いスーツ。首には皮のベルトを巻き、耳には幾つもピアスを下げている。服が違う、という点を除けば卒業式の日からまったく変わっていない。
そう、たった三ヶ月前のことだ。変わりようもない。
「チャーリー……」
呆然と空都は青年の名を呟いた。かつての悪友が目の前にいる。
「よう、ソラ。元気だったか?」
懐かしいあだ名を口にする。まるで街角で出会ったかのような気さくな口調だった。そんなチャーリーに空都は緊張を隠せない。懐かしい顔に緩みかけた気を引き締め、それとなくアタックナイフを持ち上げた。知らず滲んだ汗で柄が滑りそうだったが拭うほどの余裕もない。
彼の背後に銀色の影が控えていた。
白銀四足の犬に似た獣だ。勇猛なたてがみは背中まで続き、大きく裂けた口から鋭い牙をむき出しにしている。大地を踏みしめる四肢には恐ろしく長い爪が並んでいる。ぎらぎらと光る瞳は地獄の炎のように真っ赤だ。殺気すらも炎に見える。いや、存在そのものが地獄と言えよう。
地獄の番犬、ケルベロス。おおよそ空都が知っている限りでは最強ランクに属する魔獣だ。空都自信はもちろん、空都の仲魔や和鳴ですら敵う相手ではない。
それが今、チャーリーの前に進み出てきた。ゆらりと大気が揺れる。主を守るのかとも思ったが様子が違う。低い唸り声を上げて空都を見据えている。
「お前にゃなんの恨みもないけどな……ちょっくら死んでくれや」
たくましい後ろ足が床を蹴った。高々と飛び上がり、ケルベロスの爪が空気を切り裂く。一直線に、空都めがけて。
銃を構えた和鳴がその軌道に割って入るが、引き金を絞るのが間に合わない。右腕を裂かれ、拳銃が弾き飛ばされる。得物を失った和鳴は獣の身体に弾かれて柱に叩きつけられた。ケルベロスの勢いを削ぐことすらできなかった。かっと口を開く。ぬめぬめと光る口腔内にナイフのように鋭利な牙が並んでいるのが見える。
空都は和鳴のように反応することすらできない。あ、と声を上げる間もなく、ふさふさとした毛に覆われた前肢に組み敷かれる。そのままケルベロスは空都の喉笛に噛み付いた。ざくりと牙が突き立たる。
痛い。とてつもなく痛い。牙が神経に触りきりきりと悲鳴をあげる。ぶつりと血管が切れてだくだくと血が溢れる。裂かれた柔らかな肉はだらしなくその内部を露わにした。強烈な痛みを感じるのと同時にすーっと血が下がっていくのがわかる。
「階堂!」
和鳴が叫んでいる。いつも不遜な態度で自信に満ち溢れている先輩の声は、聞いたこともないようなヒステリックな色を呈していた。ああ俺、死ぬのかな、と空都は目の前で揺れる獣のたてがみを見た。短いながら、常人に比べれば奇妙な人生だった。辛いことも多かったけど悪くはなかった。楽しかったと言ってもいいだろう。ぼんやりとそんなことを思ったが、走馬燈とやらは見えてこなかった。視界が溶けていく。意識が溶けていく。全てが真っ白で、真っ黒で、とにかく一色だった。
血が下がりきる前に空都は意識を手放した。
「階堂! 階堂!!」
和鳴は不甲斐ない後輩の名を呼び続ける。それでも目はしっかりと眼前の敵を睨み、手を休めることはない。即座に態勢を立て直し、ホルスターから二挺目の拳銃を抜くとケルベロスの背に向かって発砲した。とっておきの魔弾を込めた銃だ。前足が千切れ飛ぶ様を思い描き、唇を歪めて笑う。
だが、人の命を一瞬で奪う凶弾は獣にとってはパチンコ玉同然だった。身にまとう炎が弾を飲み込む。高熱で魔弾は身体に届く前に蒸気と化す。どうしても効いているようには見えなかった。
「くそっ!」
それならば召喚主を倒すまで。和鳴はさらにケルベロスから距離をとる。サマナーと戦う時の定石だ。召喚主を屠れば、悪魔たちは肉体を保つことができなくなり、消滅する。弱い悪魔ならばこの世界でもなんとか単独行動できることはできるが、エネルギー消費の激しい大悪魔ならば別だ。奴らはどうしてもエネルギー供給源としての依り代を必要とする。その依り代こそが悪魔召喚師なのだ。
和鳴は拳銃を大きく振り、照準をチャーリーに定める。しかし、サイトの向こう側に金髪の男の姿はなかった。
息を飲む。
「あんた邪魔」
和鳴の懐にチャーリーがいた。細い身体をかがめ、和鳴の腹に右掌を押し当てている。見えなかった。男が動くところも、懐に入ってくるところも。久しぶりの手応え。強い敵。認めると同時に和鳴は震えている自分を感じた。それは未知の相手に対する恐れか、敵わない相手と知りながらも戦えたことへの悦びか。
「寝てろ」
鋭い衝撃が内臓を突きぬけ、脊髄を駆け上がり、脳が衝撃に震える。和鳴の意識が混濁する。それでも、最後の正直とばかりにチャーリーに銃口を押し当て、引き金を引いた。引きつった笑顔が顔に張り付いていた。
薄れゆく意識の中で、黄金の平原と対岸が見えないほどの大河を見た。
和鳴の身体がぐらりと傾く。チャーリーが無造作に手を払うと、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
「チャぁーリぃぃぃっ!!」
空都が吠える。のしかかっていた獣の鼻を押しのけ、上半身を思い切り伸ばした。右の手に握ったのは一挺の拳銃。和鳴がケルベロスに弾き飛ばされてしまったものだ。
ケルベロスに弾丸をたたきこむ。効かないことは千も承知。ダメージよりも牽制が目的だ。音と衝撃に獣が一瞬怯む。その隙を見逃さず懐から離脱した。
大きく回りこむように走り、チャーリーの目の前に踊り出る。和鳴を床に転がしたチャーリーが右手をかざす。何が来るのかなどと考えるよりも先に、渾身の力を込めて拳銃のグリップで頬を殴りつけていた。
「ふん。ようやっとお目覚めか」
ただの人間ならば歯の一本や二本折れていてもおかしくない。だが、チャーリーは口の中を切ることもなく平然とした顔でいた。避けることもせず、手で受け止めることもしない。空都は久々に友人に対して恐怖を覚えた。石像と化した同級生――龍一と明子を叩き割ったあの日以来だ。
神経を駆け巡る恐怖がその身を加速させた。銃を引き、開いた左手をチャーリーの顎に叩きつける。顔が空を仰ぐそのタイミングを見計らい、チャーリーの懐に右手を入れた。
ゴゥンと唸るような音が響く。銃声の後には静寂がやってくる。さっきと同じだ。空都はそろりと身体を離した。チャーリーの黒いスーツに空いた穴を見つけた。穴の淵が少し焼け焦げている。銃弾が放たれたのは確実だが血が一滴も流れてこない。
「どうして」
と呟きかけて飲み込んだ。チャーリーの背後に一瞬、金髪に青いドレスの少女が見えた。無邪気ゆえに邪悪な美しい少女。可憐な姿は妖艶とは程遠いが、仮に成長したとしたらとんでもない悪女になるだろう。幼き魔人は空都に微笑みかけて消えた。
「そういうことだ。お前ならこいつが何者かってことぐらいわかるだろ?」
前身頃を広げ、あーあなどと言いながら空いた穴を検分している。ズボンからシャツの裾を引っ張り出し、腹の辺りに手を突っ込んでまさぐる。潰れた弾頭が床に転がった。
「俺を殺るなら核くらい持ってこいや」
悪友は自分が言った趣味の悪い冗談に自分で笑った。そして空都に「簡単に死んでやらないけどな」と言った。
「どうした? 顔色悪ぃぞ」
チャーリーが空都の顔を覗き込む。咄嗟に銃口を眉間に突きつけるが、平然とした態度で押し退けられた。それは無駄とでも言うように。
「不思議なんだろ? 失ったはずのもんが目の前にあるのが理解できないんだろ?」
ゆっくりと銃が指から引き剥がされる。しようと思えば抵抗もできたはずなのに、何故か空都はそうしなかった。奪い取った拳銃をチャーリーは投げ捨てた。触れた手に込められた力は空都が知っているチャーリーのそれではなかった。若干ながら筋力が強化されている。
易々と鉄塊が廊下の端まで飛んでいく。これで空都の得物はなし。対抗できる仲魔もいない。ゴーグル越しに見えるチャーリーが恐ろしく強い悪魔に見えた。それも後方に控えているケルベロスよりも遥かに高位の悪魔だ。
チャーリーは空都の右手首を掴んでいる。アームターミナルを使わせないためだ。そこまで知り尽くしているかつてのパートナーにどうして勝てよう。抵抗しても敵わない。持っている者と持っていない者の差だ。空都は観念し、両腕の力を抜いた。
「もう諦めんのか?」
「だって俺はお前と違ってただの人間だ。銃弾を撃ち込まれれば死ぬし、そこのケルベロスにだって勝てない」
そう答える。友人の手にかかって死ぬならまだいいかな、と思っている節もあった。
「はあ? お前はアホか?」
呆れたようなチャーリーの声。
「さっきケルベロスに思い切り噛み付かれたのは誰だ? 血をだくだく流して顔を真っ青にして、一度命を手放しかけて。なのに次の瞬間にはケルを押し退けていたのは誰だ?」
ハッと思い出す。果てしなく続く金色の平原と雄大に流れる大河。そしてそのたもとにいる白い影。
「まさか……」
空都は右手を見る。と、同時にその半身が燃え上がった。
「な……!!」
声にならない声をあげ、空都は床を転がる。たんぱく質が焦げる臭いに顔をしかめる。髪の先がちりちりと焦げ、わずかに短くなっていた。
それだけだった。
ケルベロスの牙の間から煙があがっている。並みの人間なら焼き消してしまうほどの地獄の業火。それを空都に向かって吐いたのだ。
「あ、え? どうして俺生きてるんだ?」
自問する空都をチャーリーは手を貸して立たせる。
「軽子坂高校からの帰還者はちっとばかし特別なんだってよ。この世界でも異界化した場所ならガーディアンの力を使えるんだ。もちろん、純粋な魔界じゃねぇから制限はかかるけどな。異界化した場所ではガーディアンの守護があるから死ぬこともない。俺らはその辺の人間たちとは違うんだ。力を持ってるんだぜ?」
力――言われればそんな気もする。漠然とだが失っていた場所に何かが戻ってきたような感覚がある。胸に手を当ててみた。奇妙な高揚に心臓が力強く鼓動している。あちこち風穴の空いた身体を埋めるかのように、濃厚なエネルギーを得た赤い血を送っている。
空都は知らないがチャーリーには見えていた。かつてこの地一帯を治め、今は守護の任についている一人の猛将が。
「お前のためにケルベロスを連れてきたんだ」
そう言って傍らの獣を見た。ケルベロスは未だ警戒を解かず、喉の奥で唸っている。仲魔であれば頼もしいが、敵となれば恐怖でしかない。
「どうしてお前が悪魔を従えているんだよ。まさか悪魔召喚プログラムを……」
チャーリーは首を振った。
「残念ながら俺とあのプログラムは相性悪ぃんだ」
そういえばチャーリーは一度もケルベロスに命令をしていない。だが、獣が自らの意思でやったにしてはおかしな行動ばかりだ。
「ということはもう一人いるのか」
空都が呟くと同時に、柱の向こうからのっそりと男が姿を現した。がっしりとした体格で黒い髪を後ろに撫でつけて、口周りには綺麗に整えた髭をたくわえている。空都の心臓がきゅっと収縮した。辺りの空気の変化を敏感に感じたのだ。張り詰めた緊張に無言の重圧。冷たい殺気に背筋が凍りつく。戦いの素人にすぎない空都にもわかった。この男は強い。逆らっては命がない。
「ケルベロス、戻れ」
深いバリトンが命ずると炎の獣の姿は光の粒子となり、メリケンサックの中に吸い込まれていった。
この男がケルベロスの真の召喚主であるようだ。高位の悪魔であるケルベロスを従えることができるならば、かなりの力量を持つ悪魔召喚師であることは間違いない。空都の身体がプレッシャーを感じ続けているのもうなずける。この状態でこれだけのプレッシャーがかかるのだから、男が本気になれば恐ろしい殺気を放つだろう。場数を踏んできた和鳴ですら足が竦んでしまうかもしれない。
「黒井。目的は果たしたのだろう? 戻るぞ」
腕時計を見、男はチャーリーに向けて言った。
「あ? もうちょい待てよ。感動の再会の途中なんだぜ?」
感動の、と本人は言うがかなり荒っぽい。ケルベロスをけしかけてかつての相棒を殺し、更にはその仲間まで手に掛けたその上で“感動の再会”と言い放つ。たしかに常識では計れない“劇的な”再会ではあったけれども。
自分のためなら他人も殺す。それも極めて利己的で快楽を追求するためだけに。ある意味悪魔以上に悪魔的だ。
チャーリーは馴れ馴れしく男の方に手を置き、嫌な笑顔で空都を見た。
「今、ファントムに厄介になってんだ。悪魔召喚師じゃないから正式な構成員にはなれないけどな」
ファントム。言葉に聞き覚えがあった。ファントムソサエティと言っただろうか。和鳴が何度か忌々しげに口にしていた。何だと聞くと、説明したくもない、と黙ってしまった。その後をフォローするように、
「敵ってやつかしらね」
と依江が小さく呟いた。
結局ファントムソサエティについてわかったことはそれだけだった。
なあ、とチャーリーが手を伸ばしてくる。
「ソラもファントムに来ないか?」
言葉に理解が追いつかなかった。
「そいつクズノハだろ? あんな奴らに尻尾振ってる必要ねぇよ」
吐き捨てるように言う。クズノハと言われてもピンとこない。これまで空都は和鳴たちと共に行動してきたが、組織に属しているという自覚はなかった。せいぜい依江の家――興信所の裏家業を手伝っているものとしか思っていない。それがまさか“組織”? “クズノハ”?
そういえば、と思い直す。それまでどこから仕事がくるのかなどと考えたこともなかった。まず依江の親の事務所に客が依頼に来て、その内容次第で空都たちに回されてくるものだと思い込んでいた。おそらくその予想は当たっているだろぅ。だが、あまりにもコンスタントに仕事が続いていなかっただろうか。
悪魔による事件はそう頻繁に起こるものではない。そんなことに巻き込まれずに天寿をまっとうする人間のほうが多いくらいだ。なのにここのところ毎日のように夜の街を駆けずり回っている。何故だ? 依頼はどこからやってくる?
「鶏口となるも牛後となるなかれ。高校の国語の授業で習ったよなぁ。授業なんてサボるか寝てるかでロクに覚えちゃいないけどな、それだけはどうしても忘れられなかったんだよな」
黙ってしまった空都を何と捉えたのか、いつもより遥かに饒舌にチャーリーが続ける。
「お前と俺のガーディアンなら上層部に食い込めるぜ?」
裏を返せば「力が全てだ」と言っている。まるでそれが人生最良の選択であるかのように、チャーリーの態度は自信で満ち溢れている。男の頬がわずかに歪んだ事にも気付いていない。
「お前、何がしたいんだ?」
思わずそう聞き返す。空都が知っているチャーリーはどこまでも一匹狼だった。群れることを嫌い、気の向くままに己の欲望を満たす。そんな男だったはずだ。
「別に」
そっけない一言。言葉にそれ以上の気持ちも見えない。
「ファントムにいるのは『使える』と思ったからだ。それ以上でもそれ以下でもねぇよ。それよりも俺と来いよ。そんな奴と一緒にいるよりもいい思いできるぜ?」
迷う必要などないはずだった。なのに、かつてのパートナーの姿が空都の即答を妨げた。
魔界で過ごしたあの時間を取り戻したいとは思わない。自分勝手で他人を顧みない同級生に振り回されるのもまっぴらだ。だけど高校時代を懐かしむ郷愁が言葉を止める。
去来する思い出はたった数か月前のはずなのに、やけに遠く古ぼけた色をしていた。また空の手をじっと見る。あの頃の自分が持っていたものはもう戻ってこない。そう覚悟して、望んで手放したはずなのにやけに未練が残っている。
「なあ、もう一度俺と組もう。最強のガーディアンを持つ俺とお前ならいいコンビになれると思わないか」
背後の少女が笑い、手招いている。自分が一番だと信じる無邪気な少女が新しい“親切な誰か”を求めている。
空都は二人を見据えながら、ゆっくりと和鳴の傍らに膝をついた。
決して顔には出さないが戦う事が好きで、隙がなくて、だけど自分のこととなるととてつもなく不器用な男。後輩に対して愛のこもった皮肉を言うことを日課としている男。そのたびに空都は噛み付き返したが決して憎めなかった。その男が今、圧倒的な力の前に屈して昏倒している。並以上の力を持っていても所詮この男も人間だった。
拳銃の弾倉を抜いた。和鳴の懐をまさぐって予備の断層を取り出しセットする。遊底を引く。静かなロビーに金属音が響く。不思議なことにチャーリーも男も手を出さず、空都を見守っていた。
だらりと下がった銃口は和鳴の腹に向いていた。
「これが俺の答えだ」
パーンと乾いた音が弾ける。硝煙のにおいが空都の手にまとわりつく。長い長い間、空都は方膝をついたまま動かなかった。
チャーリーがにやりと口を歪めた。金色の髪の先をわずかに焦げ付かせて。
「それがお前の選択なんだな?」
手にした銃はチャーリーに向けたまま、うなずく。
低い低い笑い声が聞こえる。喉の奥から押し出すように、何が愉快なのかチャーリーが笑う。
「その猛将の力、必ず手に入れてやる」
男が背を向けて歩き出す。外への扉を大きく開く。扉の向こうにはぐにゃぐにゃと色を変えながら歪む闇の空間があった。躊躇いなく身体を入れる。虹色の波紋の描いて男が吸い込まれていく。
「ひとつ教えてやるよ。この空間を作り出したのは俺たちじゃない。でかい悪魔をコアにして別の野郎が構築したんだ。あいつはすげぇ厄介だからな……お前に倒せるか?」
二人の姿が、常に色を変える粘性の闇の中に消える。空都は追いかけずにその背を睨んでいた。今の空都なら二人を相手にしても互角に戦えたかもしれない。だがなぜかそうする気にはなれなかった。
波打つ虹色の扉が消失した。チャーリーの高笑いだけがいつまでも尾を引いていた。