■性悪説
※彩月饗宴の設定を用いたパロディです。
「困るんですよ、勝手に持ち出されては」
この国最大の繁華街。休日は車道が開放されて歩行者天国となり、余暇を楽しむ人々が溢れる。
そんな街のど真ん中で道化師の恰好など目立つはずなのに、誰も気に留めない。パフォーマンスと思われているにしても、見物客が寄ってこないのはどういうことだろう。
白いドーランを顔どころか胸から手から足にまで塗りたくり、更にどぎつい紫色のドーランを塗り重ねて髑髏のような化粧を施している。
離れているにも関わらず、白粉がここまで匂ってくる。慣れない匂いに壱哉は顔をしかめるが、鼻を塞ぐことはできない。何がくるかわからないから、両手は常に開けておく。
世界には壱哉と道化しか存在しないかのようだ。街の騒音はフィルターをかけたかのように遠く、人々や街の風景は鮮やかな色彩を失って灰色に染まる。
「あの子は貴方の何なのですか?」
言ったのは壱哉か道化か。眩暈に思考が揺れる。言葉の主を判別できず、己の台詞だったかどうか確信が持てない。
緊張する壱哉に対し、道化は悠然と構えている。光沢ある燕尾服の袖から手首に巻かれた包帯が覗いている。整った服に不釣り合いなほどに薄汚れ、何やら書きつけてある。漢字のような梵字のようなそれが記憶の片隅をつつく。自分はそれを見たことがある。思い出そうとするが、何かが阻害する。
「”俺”はあの子の父親だ」
頭を押さえ、辛うじて答えを絞り出す。脳内を熱い血液が走る。眩暈から始まった頭痛が壱哉を苛み、視界が明滅する。
「さて、それは貴方の本当の言葉ですか?」
にたりと口角を引き上げて道化が、いや、髑髏が笑った。
「……どういう意味だ」
「下心があるのではないか、と聞いているのです。若い男が女児を囲う。本人にその気がなくとも、世間はどう思っているでしょう。この国の古い物語にもあるではないですか。己の欲望を満たすために子を育てる男の話が」
古文の授業で習った。こんな俗物的なものが日本の文学として持てはやされるのかと不快に思った覚えがある。どんなに美しい言葉で飾り立てようとも、そこに描かれている本質は邪欲であり、人としての道理に反している。
自分は違う。青褪めた顔で何度も己に言い聞かせた。ようやく見せるようになった笑顔を思い出して、自分は間違っていないと繰り返した。
あの子が汚れるところなど見たくない。自分があの子を汚すこともありえない。
「この世界に聖人君子などいない。どんなに心清らな聖職者であっても、やましい心を奥底に秘めている。それが人間というものです」
「黙れ」
脂汗が額を伝う。
「ならば何故貴方はその娘を育てるのです? 縁もゆかりもない、見ず知らずのガキですよ。そんな義理などないでしょうに」
「それ以上喋るな」
「この世には可哀そうな子供が幾らでもいます。捨てられた子、虐待を受けている子、親を失った子。外国へ目を向ければ戦災孤児だってごまんといる。幼い身の上に苦難を背負い、無知ゆえにそれを己の運命と享受している。そんな哀れな子供が目の前に転がっていたら全て拾い上げ、養うのですか? しないでしょう。貴方にそこまでの博愛精神はない。あるのは偽善と支配欲と独占欲です」
「黙れと言っているんだ」
「あの子だから」髑髏が笑う。「拾ったのでしょう?」
本来ならば黒いはずの眼窩に爛々とした目がある。白目は黄ばみ、淀みきった光を湛えた瞳が壱哉を射抜く。
「美しい子でしょう? 穢れを知らず、清らかな魂と体を持っている、数世紀に一人の逸材です。幼い今でさえ神々しく、美しい。ええ、あの子があのまま成長したら、どれだけ素晴らしい聖女になるでしょう」
髑髏の顔が迫り、壱哉の目を覗き込む。鼻先の白粉の匂いにえづく。
「本当になかったのですか? あの子に情欲を抱いたことが一度もないと言い切れますか?」
「五月蝿い!」
晴れた空に突如猛烈な吹雪が巻き起こった。竜巻のように渦を巻き、強烈な風が道化の身体を嬲る。吹雪の中心に立つのは壱哉だ。いつもの柔和な顔は完全に消え、焦燥と怒りのこもった瞳が暴風の向こうにいる道化を睨む。
背に負う人でない存在が、壱哉の首に透明な腕を回す。色のない唇を囁くように壱哉の耳に寄せるが、それだけで言葉を紡ぐことはない。彼女は声を発する喉を持たない。
「何故今更現れた」
吹雪が収まり、持ち上がっていた燕尾服の裾がふわりと降りる。始めの場所から微動だにせず、髑髏の道化が立っていた。奇矯な化粧もそのままで、身体は一つも濡れていない。
かぶっているシルクハットのつばをくいっと指先で上げる。
「貴方が盗っていった物、返していただきましょうか」
道化がステッキでトン、と地面を突く。するとそこを中心に光の円が広がった。ヘブライ文字と梵字が規則正しく並び、そこかしこに繁体字とひらがなが踊る円陣だ。西洋魔術と東洋魔術が融合し、見たことがあるような気がするけれどはっきりと説明はできない様式。
説明はできないが、壱哉はこれを知っている。見るだけで不安を煽る、禍々しい魔法陣。
驚愕に目を見開き、そしてにやける髑髏を睨みつけた。食いしばりすぎて奥歯が軋み、口内に血の味が広がる。数年分の恨みを込めた目で、真の敵を見据える。
「貴様だけは許さない。ここで消えろ」
道化が狂ったように笑う。円陣が暗く輝き、髑髏の哄笑を下から照らす。
「さあ、パーティーの続きです」