[本編] [その後]

拝み屋稼業:目次/その後

 一時期、拝み屋の真似事をして生活していた。
 真似事というのだから、もちろん偽物である。修行したこともなければ霊感もない。依頼者の前で適当な呪文を唱えて金を貰うだけの、世間一般では詐欺師と呼ばれているものだった。
 拝み屋という職業自体、胡散臭いものだ。霊だって本当にいるかどうかわかったものではなく、それは拝み屋同士でも思っているに違いない。末席に私のような詐欺師がくっついたところで誰が気に留めることもなく、悠々と商売ができた。
 適当な口先三寸でも、悩みを抱える人間にとっては藁のようなものらしい。不思議と依頼は途切れることがなく、生活に困らないだけの収入はあった。

 そんな拝み屋稼業の中で、一度だけ本物に遭遇したことがある。
 それは真夏の盆が近い頃であった。
 倒産した工場の社長からの依頼だった。廃工場の一つに出るという噂が広がり、買い手がつかないので念のため祓ってほしいという話だった。社長自身はそんなものを信じていないという体だったが、妙に怯えていているような素振りも覗き見えていた。会社が倒産したことで神経質になっていたのだろう。もしかしたら負債のことで銀行屋か何かに追われていたのかもしれない。
 提示された額は相場よりも高かった。手付金で五万、事後報酬で十五万。現金で支払うという。私は二つ返事で引き受けた。塩でも盛って適当に祈ればいい。そんな簡単なことで二十万が手に入る。
 その場で手付金を貰うと、私は早速その廃工場に出向いた。
 拝み屋らしく黒装束に身を包み、数珠を下げた姿で足を踏み入れる。昼下がりのその時間はまだ暑く、汗を拭きながらここまで来たが、工場の中は不思議とひんやりしていた。
 人がいなくなってからどれくらい経っているのだろうか。捨てられた工場はもはや誰が入るでもない。床のコンクリートを割って、青々とした雑草が伸び放題だ。機械や什器は取り払われ、がらんとした空間ばかりが広がっている。元社長はどうしてもその工場内に入ろうとせず、私一人でここまで来た。事前に見取り図を見せてもらったが、案内が必要なほど入り組んだ構造ではない。ただ、物がないので想像よりも広く見えた。
 雑草や砕けた硝子を踏みしめ、工場の中央と思われる部屋まで進む。なるほど、外から一番離れているだけあってかなり薄暗い。コンクリート剥き出しの壁は煤け、どこからか漏れた水が床におぞましい模様を描いている。浮いた油が虹色に光る。
 絵に描いたような廃墟で、肝試しをするには抜群の雰囲気だ。子供たちが面白半分に入ってきてもおかしくはない。
 ここも機械は持ち出されていた。年代物の大きな木の机が一つ、壁際に置いてあるくらいで、設備らしき物はない。その木机すら、雨漏りで濡れて表面が黴に覆われていた。
 地面にはゴミ屑が散乱している。足元に転がっていた、腐食して穴が開いたスプレー缶を蹴った。乾いた音を立てて缶が転がる。こんな物しかない。少年が喜びそうな綺麗な石だとか、工作機械の部品だとか、そんながらくたすらなかった。
 どこかで蝉が鳴いている。額に滲む汗を拭い、辺りの物音に耳を澄ませた。外の音が遠い。町外れのこの工場は幹線道路からも離れていることもあり、とても静かだ。
 たとえ昼間であろうとも、ここで何かが起こっても誰も気付かないのではないだろうか。鼠一匹、虫一匹すら見当たらない、小生物すら近寄ろうとしないこの場所で、ひっそりと何か事が行われる。
 そう、例えば殺人とか。
 己の低俗な想像が笑えない。
 安いドラマの見過ぎだろう。死体なぞあるなら、何かしら形跡が残るだろう。例えば争った跡、血痕、引きずった跡、捨てられた凶器。残念ながらそんな劇的な物はない。置き去られた塵が無秩序に散乱しているだけだ。
 何を怯えている?
 これまでも拝み屋として様々な現場を見てきた。たしかに不気味に思える場所は幾つかあったが、これといって変わったこともなかった。幽霊が出るだの妖怪が出るだのといった怪奇現象は、思い込みが見せた幻覚だ。当人の心根の問題を、他所に投影してしまっただけだ。今回の件も、廃工場の雰囲気に飲まれてしまった人間の錯覚だろう。
 だから怯える必要などない。己の臆病さを自嘲して笑う。
 次の部屋に足を踏み入れた時、その嘲笑も凍りついた。
 工場の奥も奥、表の音も微かにしか聞こえないような場所。窓もなく、天井の裂け目から注ぐ一筋の陽光だけが頼りだ。そこに浮き上がるのは、これまでと同じく無価値な塵があるばかりのがらんどうの部屋。その真ん中に白い影があった。
 すわ化物かと身構える。昔の人は幽霊の正体見たり枯れ尾花と詠んだもので、あの世の人かと思えば揺れるススキだったなどという例は枚挙に暇がない。
 だからこそ、ここに動く何かがいるとするのならば、それは意図的な侵入者に違いない。社長も、噂のせいで悪戯盛りの子供すら入ってこないと言っていた。
 脇を締める。構えだけは一人前であると褒められたことがある。しかし、肝心の実力は門前の小僧にも及ばぬもの。何しろ、中学に上がる前にやめてしまったのだ。そんな付け焼刃の空手がどこまで通じるだろうか。
 だが、くるりと振り返ったその顔を見て構えを解いた。
 それは生きた人間だった。歳は私よりも十ほど下だろうか。肉の無い輪郭と土気色の肌はさながら結核で亡くなった書生のようだが、よくよく見れば足がある。足袋と草履を履いた足はしっかりと地についていた。少なくとも血の通った人であるらしい。
 背は高く、姿勢さえ真っ直ぐであれば中々の男前なのだろうが、丸めた背にはどうにも頼りない印象が付き纏う。白い衣に袴という浮世離れた服装もそうだ。仕立てが良く塵一つついていないような着物は、どこぞの温室育ちの匂いがする。黒装束の私が言えた義理ではないが、薄暗い廃工場に相応しいものではない。
 こんな情けない風体のお化けがいるだろうかと言いたくなるほどに弱々しい。いや、むしろ影が薄いというべきか。顔は整っているようだが、印象が薄いのだ。ここでしばらく語らって別れたとしても、顔を思い出せるかと問われたら自信がない。これではお化けと間違えられても仕方ない。
 毒気が抜かれてしまった。
 青年も驚いたような顔をしていたが、こちらが構えを解いたのを見て一息つく。
「ここは危ないですよ」
 気弱そうな青年は少しだけ笑い、女のように細く長い指で元来た入口を示す。帰れ、ということだ。
 弱々しく見えるのは外見だけで、肝っ玉はかなり据わっているようだ。初対面でこれとは随分と失礼な奴だと思ったが、こちらもこういう手合いには慣れている。こちらはこちらで仏頂面を崩さずに相対した。
「いや、そういうわけにもいかない。これも仕事だからな」
「そちらの筋の方ですか?」
 青年は私の黒装束と数珠に目をやる。黒装束も数珠も決して安い物ではない。信憑性が増すだろうと敢えていい物を選んでいた。見る者が見ればわかるというやつだ。
「そういうことだ」
 そこでふと思い当たった。この若造も同業者なのではないかと。
 別の誰か、例えばこの土地を早く売りたい社長の身内が土地を清めるために拝み屋を雇った。しかし社長との連絡が入れ違ってしまい、社長は既に私を雇った後だった。そのため、こうしてここに自称拝み屋が二人揃うことになった。
 ありえる。充分ありえる話だ。こんな場所に袴なんて恰好で来る物好きが、堅気の人間とも思えない。
「君は」
「見えてないんですか?」
 自分の考えを証明しようと誰何しようとしたところで青年が口を挟んだ。半端に開いた口にしかめた眉という私の顔は実に滑稽なものであったろう。
 青年は少し目を細める。その視線は私ではなく、私の背後に向けられているような気がした。
「“そんなもの”背負って、何ともないんですか?」
 ぞくり、と背筋を寒いものが下りていった。得体の知れない威圧感に、急速に喉が渇いていく。
「僕を祓いにきたんですか?」
 心臓が大きく脈動する。耳の奥まで鼓動が満ちる。平静を装うものの、震える声を押さえることは、こんなにも力を要するものだったか。
「君は、生きているのではないのか?」
 青年の口元には薄い笑みが浮かんだまま。
「さあ、どっちでしょうね」
 それまで生者と信じていた青年の存在が、急に希薄となった。私はあの身体に触れられるのだろうか。差し伸べた手はもしかしたら突き抜けてしまうのではないだろうか。
「やめておいたほうがいいですよ」
 ぎくりと身体が強張る。わずかに浮いていた右手を隠すように背後に回した。私の考えを読んだのかと思えるような間だった。
「ふん、そうかい。ならば出直してくるとしよう」
 冷や汗が頬を伝う。なお震える手を袖に隠し、大人の余裕を見せた素振りで元の道を引き返す。
「君も早く帰るがいい。ここは子供の遊び場ではないのだからな」
 振り返らなかった。尻尾を巻いて帰る私を、青年がどのような面持で見送っているのか見たくもなかった。そして万が一青年の姿が消えていたらという嫌な想像もあった。

 足早な草履が砂利を食む。ただその音だけを聞いて歩き、ふと己が道を誤ったことに気付いた。迷うような道でもなかったはずだが、どこかで入る部屋を間違えたらしい。
 そこは搬出路のようだった。幅のある廊下の中央に二本レールが引いてある。おそらくここを、製品を載せた台車が走っていたのだろう。天井と床には、進行方向へ向かって大きな矢印が書いてあった。その傍らには『安全走行』と書き添えてある。
 さて、引き返すべきかと考える。ここが本当に搬出口に通じているのならこのまま進んでも外に出られるだろうが、確信はない。しかしながら後ろを振り返るのも躊躇う。すぐ背後にお化けよろしくあの青年がいるかもしれぬという妄想は脳裏に張り付いたままだ。
 進むか、引き返すか。一刻も早くこんな場所からおさらばしたい身としてはどちらが最善なのか。さっさと出て、社長に祓い終わったと報告すれば仕事は完了だ。これっきり。こんな場所とも青年とも縁が切れる。
 逡巡に足が止まった、その直後だ。
 工場の奥深く、ちょうどあの青年がいた辺りから、地を揺るがすような轟音が聞こえてきた。間もなく足裏が振動を受け止め、頭は天井から零れ落ちてきた粉塵を被る。不意の事態に足が竦んだが、本能に叩き起こされた。
 崩れたら、死ぬ。
 逃げた。這うように逃げた。黒装束が土にまみれようと、擦った手から血が流れようと、逃げた。
 道なぞもう気にしていられなかった。足が向く方へ、本能が出口と信じる方へ走った。
 天井が崩落する音。壁が軋む音。柱が倒れる音。倒れた柱に潰され割れる硝子の音。
 いつ大地が割れても不思議ではない。足を踏み出したその先に黒い地割れが突如現れ、吸い込まれるように落ちていく。
 嫌な想像が嫌にはっきりと脳裏に浮かぶ。
 鼻水を垂らしながら歯を食いしばり、一心不乱に駆ける。 
 やっと外に出て、道路の反対側まで辿り着いてから、今出てきたばかりの門を振り返る。
 黒装束は裾が破れ、草履の鼻緒も千切れかけていた。手持ちの数珠はどこかに引っ掛けたのか、握りしめた四粒の珠だけが残っていた。上下する肩もやがて落ち着き、足袋の先端に穴が空いていることに気付いた。
 蝉の声が耳朶に張り付く。
 それだけだった。崩れるかと思われた轟きはなんだったのか、工場は入る前の姿のまま、そこにあった。茫然と立ち尽くしていたが、やがて額から滝のように溢れる汗に気付いた。懐から取り出した手拭いで拭き、空を見やる。青い空に雲が一つ。
 良くない噂のせいで人が寄りつかない廃工場。近所に民家がないわけではないが、誰一人として路上に出てこなかった。
 帰宅してからテレビをつけたが、地震が起こったというニュースはなかった。


 その後、工場は更地となり、土壌を入れ替えた後に小奇麗なマンションが建った。かつての噂が祟って相場より安めの値がつき、ほどほどに人は入っているようだ。
 実はあの工場が化学工場だったということは後々に知り合いから聞いた。所有者の元社長はそんなことは教えてくれなかった。

 あれ以来拝み屋はやめた。商売道具だった黒装束は焼いて捨て、残った四粒の数珠の玉も川に投げた。それから何をしていたかはこの話には関係ないので割愛するが、本物に遭遇したのかもしれないという気持ちだけが心の奥底に残り、しばらくは生きた心地がしなかった。人にこの話をすることも憚られ、私と元社長を引き合わせた男にすら話さなかった。
 説明がつかない得体の知れない何かは確実にこの世に存在する。それを知ったのだから充分だ。知った上で五体満足で帰ってこれたことを感謝しなければならない。
 あの青年は何者だったのか。生きている人間だったのか、死霊だったのか、今でもわからない。しかし彼は本物であり、もう二度と会うことはないという予感はした。仮に再びの邂逅があるとするならば、それは私がこの世からいなくなる時であろう。
 そしてその予感は間違いなかったのだが、それはまた別の話である。

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