[本編] [その後]

拝み屋稼業・その後:目次/本編

「道にでも迷われましたか?」
 ある暑い夏の日のことだ。盆の終わりだったと思う。公園のベンチでぼんやりとしていた私の横に座ってきた者があった。一人分ほど空けて隣。大して長くないベンチの右端に私、左端に彼という配置になる。
 少し首を傾けて顔を見た。青白い顔のひょろ長い青年だった。青年は色の薄い着流しを纏っていたため、昼の幽霊かとも思ったが、しっかり足があった。足元には影もあった。こちらに向ける穏やかな微笑みは幸薄く見えるが、品の良さと人を安心させる何かを持っている。
「迷ったとも言えるし、迷っていないとも言える」
 何と答えたものかと頭を悩ませ、出てきた返事はそれだった。行先はわかるが道がわからない。道を尋ねようにも尋ねられる者がおらず、道しるべがない。そして私はそこに行くべきなのかどうかもわからない。そんな曖昧な答えを続けた。青年は笑みを崩さない。それどころかこんなことを言い出した。
「ならば教えていただけませんか。貴方がこれまで辿ってきた道を」
 思わぬ返しに驚きはしたが、話してみようかという気になった。何しろ人との会話は久方ぶりだった。一人でも平気だと生きてきたつもりだったが、案外人恋しさもあったのだろう。私は自分でも驚くほど素直に、己の生い立ちからここに至るまでを語り始めた。

 人生といっても大したことはない。田舎の生まれで五人兄弟の下から二番目。思い返してみれば父母は五人養うのに精一杯だったような気がする。その日の飯に困るほど貧しいわけではないが、裕福とは言い難かった。毎日の食事は奪い合いで、意地汚い争いを繰り返していた。私はいつも兄達に力で負けていた。そこで年功序列と反骨という相反する二つの精神を学んだ。
 親は共働きで、五人もの子供の面倒を見るにはいささか忙しすぎた。必然的に我々兄弟は放任され、奔放な少年時代を過ごした。勉強よりも遊んでいるほうが好きなやんちゃ坊主で、生憎と上の学校にいけるほど頭はよくなかった。
 学校卒業後は家を出、下町の工場に住み込みで働き始めた。他の兄弟も似たようなもので、早くから働き始めて家に仕送りをしていた。一番下の妹だけはその金で短大を出たと風の噂で聞いた。何故風の噂なのかというと、働き始めて数年後に家と縁を切ったからだ。
 就職して三年ほど経ったある日、突然首になった。私の反骨精神が原因だった。仕事の進め方で親方と激しく対立したところ、即日解雇を言い渡された。もともと経営が思わしくなく、何人か工員を切ろうとしていたところにいい機会でやらかしてしまったというわけだ。
 その頃は今のように手厚い雇用保険なんてなかった。それどころか、会社自体が労働法に準じていたかどうかも怪しいものだった。給料は笑えるくらい少なく、それでいて労働時間だけは長かったのだ。
 大して荷物もなかったから着の身着のままで追い出され、あっけなく路頭に迷った。
 そこから先は転落の一途だ。ろくに学がない小僧は我だけは強く、どこへいってもうまくいかなかった。頭を下げて雇ってもらっても、一週間と続くことはなかった。そうなると後は想像がつくだろう。日雇いの現場を転々とし、いつしか悪事に手を染めるようになった。よくある話だ。

 そこで一息ついた。ここからはろくな話ではない。人の命を奪うようなことこそしなかったが、ただ罪を重ねるだけの人生だったことは間違いない。窃盗、詐欺、恐喝、密売、博打、偽造。時にはヤクザの下請けをしたこもあったが、殆どがこそこそと一人でしていたけちな商売の話だった。私はあまり徒党を組むことは好かなかった。
 しかしこうして並べ立てて話してみると悪事のオンパレードで、よくもまあ五体満足でいられたものだと思う。幸いなことに刑務所に放り込まれることもなかった。仕事する時はバカみたいに慎重だったからだ。
 見知らぬ青年にこんな話をするのは一瞬躊躇われたが、気付けば全ての悪事を仔細まで告白していた。まるで神父に懺悔しているような気分だった。
 どのくらい話していただろうか。太陽が徐々に傾き始め、公園で遊んでいた子供たちも一人二人と帰っていく。親が迎えに来る子もあれば、友達と連れ立って帰っていく子もいた。そんな長い話でも、育ちの良さそうな青年は嫌な顔一つせずに黙って聞いていた。
 やがて話も終盤にかかる。ここからはつい最近の出来事とは言え、自分でも驚くほど鮮明に覚えていた。

 何十年と裏街道を歩んでいたが、そんな私にもついにとうとうけちがついた。なんのことはない、賭博屋からの帰り道で居眠り運転に轢かれるというつまらない交通事故だ。久しぶりの大勝に浮かれていた私にも多少の落ち度はあったかもしれない。けれど、どうにもならなかった。猛スピードで突っ込んできた十トン車と正面衝突して生きている方が奇跡だろう。これも運命というやつか。道の真ん中に倒れ、微動だにできずにいた。傷みすら感じることもなく、私は夢うつつであった。最後の最後までお上に捕まるなんてへまこそしなかったが、終わりはあっけないものだと混濁した意識の中で思った。
 これで騙し騙され追い追われの詐欺師人生も終わりか。
 楽しかったかと問われれば、そうでもなかった。お上の目に触れないように身を隠しながら、小銭を稼ぐようなせこい商売ばかりしていた。成り行きでこうなってしまったとは言え、伴侶も持たず、住まいを転々とした。常に怯えていた我が身に安住の地はなかった。小悪党の人生なんて皆こんなものだろう。
 してきたことは小なりとも悪事は悪事。行先は地獄に違いない。朦朧とする視界の中にお迎えの姿はまだ見えなかったが、早く連れて行ってくれと目を閉じた。取り囲む人々の声が遠のいていく。
 次に目が覚めると、そこは三途の川。
 ではなかった。
 事故現場だった。緊急車両や制服の男たちが道路中央を取り囲む。大きなトラックが中央分離帯に乗り上げ、一面に車体の破片と思しきガラス片や金属片がばら撒かれている。そしてその前輪の辺りは青いビニールシートで覆われていた。引きずったような赤い筋が数本、そのビニールシートの下から伸びている。
 救急車のサイレン。怒号。制服の男たちは忙しなく動き、運転席から男を引きずり出す。運転手と思しき男は額を切ったのか、顔の半分を真っ赤に汚していた。しかし茫然とした様子で、制服たちに両脇を掴まれ、なすがままにどこかへと歩かされている。
 バールやハンマーを持ったレスキュー隊員がトラックに走り寄り、ビニールシートの下へ入っていく。
 道端には人々が壁をつくってざわついている。話題はまさにそのトラックの下のことだろう。中には写真を撮っているような不謹慎な者もいたが、それが堅気なのか報道関係者なのかまでは判断つかなかった。
 ああ、こんなに注目されたことはなかったな。
 そんな間の抜けた感想しか出てこなかった。不思議と気持ちは落ち着いている。あのトラックの下にいるのが自分の抜け殻だとわかっていても。

 死んだ。死んでしまった。
 自覚はしても実感はなかった。ある日突然電話がかかってきて、どこにいるかもしれない親が死んだと連絡された時と同じような気分だった。特にこの世への未練もなかったので、ありのままに事実を受け入れた。それどころか、もう逃げる必要もないと思ったら心持が軽くなった。
 そして私は幽霊となった。生前は霊魂やらあの世やらを一切信じていなかったが、いざ自分がそうなってしまうと信じるより他なかった。
 一時期は拝み屋なんて詐欺商売もやっていたので、あの世についての知識は一通りあった。仏教だの神道だのはひとまず置いておいて、あらゆる生物は死ねば幽霊となり、いずれお迎えがやってくる。行先が極楽であれ地獄であれ、この世に未練の無い者には等しく奴らはやってくるのだ。
 しかしながらそのお迎えは一向にやってくる気配がなかった。行きどころを失い、帰る場所もなくし、生者のように振る舞うこともできず、果ては消滅することさえままならず、ただ彷徨うだけの存在となるより他なかった。そう、ただ彷徨うだけだ。人を脅すのは生前に散々やったので、悪霊のように人を驚かすようなことはしなかった。あれほどあった欲や執着や一切消え、いっそ清々しい気分だったのだ。それだけに、化けて出るなどという無益なことをしても虚しいだけだと心のどこかで悟っていた。
 腹が減ることもなければ眠くなることもない。あらゆる欲望から解放された私はただ漫然とその辺りをうろついていた。
 そんな日々が何日も何ヶ月も続いた。最早悟りきっていたので退屈することはなかったが、いつになったら本当の意味で逝けるのだろうと考え続けていた。いっそのこと自分から逝ってしまおうか。そうも考えたが、天へ昇る術を知らない。一時期は拝み屋をやっていたのに、自らを送ることができない。それもそうだ。私は紛い物の拝み屋だったのだから。
 申し訳ないな、と思った。数多の依頼の中には本物も混ざっていたのかもしれない。最後まで見えることはなかったが、訪れた現場には現世に囚われて逝くことを知らない幽霊たちがいたのかもしれない。そして彼らは拝み屋の恰好をした私を見て、やっと逝けると期待していたのかもしれない。けれど偽物の私には彼らを送るどころか認識もせず、適当に塩を撒くばかり。そんな簡単な仕事だけをして背を向けて帰っていく。生者と死者の視線は決して交わらない。
 我が身になってようやく思い至った。私は随分と非道いことをしてきたものだ。生者に対しても、死者に対しても。
「そういえば君とは一度会っているな」
 ふと思い出した。何年前になるだろうか。まだ若い頃、今日のような暑い夏の日のことだ。廃工場の霊を祓うというよくある依頼だった。その陰気くさい工場に足を踏み入れた際、この青年に出会っている。あの時は白い和服に袴という出で立ちだったため、幽霊にも見えたのだった。
 その後にちょっとした事が起こり、私は拝み屋の真似事を辞めた。今思えばあれは霊障というやつだったのだろう。そして幽霊や死後の世界というものを少し信じてみる気になったのだ。
「ああ、あの廃工場にいらっしゃった方ですか」
 その時の話をすると、青年はあっさりと思い出した。随分前の事なのに、記憶力は悪くないようだ。
「あの時は何をしていたんだね?」
「弔いですよ。今と同じです」
「今、ね」
 数珠もなければ札もない。呪文を唱えず塩を撒かず、それでも彼は弔いと言う。
「これが君の仕事なのかね? 私のような偽物ではなく」
「ええ、まあ」
 照れくさそうに頭を掻く姿は坊主にも神主にも見えない。過去からやってきた書生のようであり、サナトリウムで療養中の患者のようでもある。その存在は私よりも遥かに儚く見える。どちらが患者でどちらが医者か。もっとも医者の不養生という言葉も存在するので、あながちそちらが正解かもしれない。
 ふむ、と私は顎を撫でる。これ以上伸びることのない無精髭がざりざりと音を立てる。三大欲求もなければ生理現象もない。そろそろそんな毎日を持て余していたのもまた事実。
「ではそろそろ観念して地獄の釜へ赴こう。君が送ってくれるのだろう?」
 観念とは言ったがそれほど現世が惜しいということもない。しかしあの時彼に追い払われたことを思うと皮肉が出た。仕事の邪魔だったのだろうが、本物の威厳を見せつけるとは実に性質の悪い追い払い方だった。
「君、名前は?」
 冥土の土産にと聞いてみる。聞いたところであの世へ逝った私が覚えているという保証はなかったが、悪い趣向ではないだろう。これも何かの縁だ。聞いたところで祟ることはしない、とだけ付け加えた。
「蒼凪壱哉です」
 落ちていた枝を拾い、地面に漢字が四つ並んだ。律儀に名乗る彼の笑顔に影が下りる。既に陽はその姿を消し、ぼんやりと空に光が残るばかり。黄昏と言ってもいい頃合いだった。別れの場面にしては出来過ぎた時間だが、見送りがいると思うと多少なりとも気持ちが安らぐ。親戚どころか家族との縁も切れている身の上だ。身元不明で無縁仏として葬られた身には贅沢なことだ。
「道はあちらです。参りましょう」
 指す先には公園の小さな出口。運送会社のトラックが横切るのが見えた。あそこが私の現世の出口であり、あの世への入口というわけだ。
「また君と出会うことはあるのだろうか」
 輪廻転生、永劫回帰。魂は長い旅路を経て再び誕生するという仏教の教えだ。それが真実であるならば、いかな罪を負った私でもいずれ魂を浄化され、あるいは償うためにこの世に生まれ落ちる可能性はある。
「さあ、わかりません。僕ができるのは入口を示すだけで、そこから先のことは知りませんから」
 さも死後の世界を見てきたかのように語る詐欺師よりは、余程信憑性に満ちた言葉だ。彼が知るのはそこへ至る道だけなのだ。その入口すら見つけられずに迷う私のような者にとっては神にも等しい案内人だ。
 でも、と彼は続ける。
「もしもまた出会った時のために貴方の名前を教えていただけますか?」
 驚いて青年を見る。もう二度と名乗ることはないだろうと思っていた。もう二度と呼ばれることはないであろう名前。知ったところで何の益にもならない。思い出話をするような知り合いもなく、かつての家族すら私のことを忘れているだろう。身元不明のまま荼毘に付されたので、墓碑に刻まれることもない名前。
 それを教えろと青年は言う。
 知らず口元が緩んでしまった。ただ忘れられるだけの存在だと思っていた。家庭を持つこともせず、何ら生み出すことのなかった私は、生まれてからの数十年を無意味に費やしてしまったのではないかと悩みもした。
 誰か一人でも覚えていてくれるならば、それが私が生きた証となる。こんな罪人の人生でも、生きた意味はあるのかもしれない。
 親から与えられた物は全て捨てた。肉体すら捨てた。いや、不慮の事故により捨ててしまった。そんな私にとって名前は唯一残された物だった。
 久方ぶりに名乗った声は、わずかに掠れていた。枝を持てない私は青年がそうしてくれたように地面に書くことができなかったので、口頭で字面を伝えた。良い名前ですね、と言ってくれた。 
「もう迷わぬよう。お気をつけて」
「ありがとう」
 差し出された手を握る。肉体を失った身で生身の青年と触れ合うなど滑稽なことだと思ったが、不思議と握り合った感触があった。青年の手はひんやりと冷たく、少し荒れていた。
 現世での私がここで途絶えることに恐れはなかった。それどころかこれまで抱えてきた孤独は胸の裡からさっぱりと消え、ただただ爽快な気分だった。
 そして私は振り返ることなく、小さな小さな公園の門をくぐった。

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