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雪かもしれない(1):小説目次/next




 これは私と友人が出会った最初の事件である。





 正月三が日の午後、孤独な部屋に電子音が鳴り響く。
 珍しく勉強しようと机についたのが三十分前。調子が出てきてスムーズに問題が解けるようになってきた頃だった。元々数学が得意でない私なのでこのように調子に乗る、ということは滅多にない。これでテストもいい点が取れる、とかなり自信がついてきていた。
 そう、一週間後にテストがある。だから、冬休みと言えども遊んでなどはいられない。勉強嫌いの私でさえ、こうして勉強をしている。新年早々、勉強している。机に向かって陰気にペンを走らせている。
 そんな私の気持ちも知らず、少し離れたところにある石油ファンヒーターは鳴き続けていた。オレンジ色のランプが点滅し、給油をしろとやかましい。
「ええい、うるさいっ」
 思わず大声で言うと、ファンヒーターは大きく熱風を吐いた。内部で燃焼する音も大きくなり、まるで口答えしているかのようだ。しかし、やがてその熱風も弱くなり、小さく震えてファンヒーターは停止した。電子音も途切れる。ただ、給油ランプだけがそのオレンジ色の光を点滅させているのみ。
 ああ、やっと静かになった。参考書をめくりながら再び問題に取りかかる。
 が、それも甘かった。ファンヒーターが停止したということは、これすなわち寒くなるということだ。案の定、室温は段々と下がってきて、今度は寒さで集中できなくなってしまった。
 地球温暖化で今年は暖冬。どこの気象予報士も気象台もそう報じている。勿論、東北の片田舎にも以上気象の影響は及んでいた。どちらかというと日本海寄りで、かつて豪雪地帯と言われていた地域だったのだが、今シーズンはいまだに雪が降っていない。十年ほど前から降雪量が減り始め、ついにとうとう全然降らないという状況になってしまった。昨日年始の挨拶にきた農家をやっている叔父さんは、「水不足が心配だ。これじゃあ米の収穫量が減るよ」とぼやいていた。
 それでも冬はしっかりと寒い。雪が降るほど寒くなくとも私にとっては十分に寒い。だから、冬は苦手だ。寒くなければ好きなのに。数学と同じ。難しくなければ好きなのに。
 そしてついに寒さに負けた私は立ち上がった。もう一枚、セーターを着こむと、ファンヒーターからすっかり空になった灯油タンクを引き出す。
 廊下は更に冷たかった。スリッパを履いていないことを後悔した、板張りの廊下はほぼ外と同じ気温と言ってもいいだろう。吐く息は白い。
 田舎の日本家屋の三大特徴。広い、廊下が長い、寒い。私の家はそれら全てが合格点だった。部屋の一つ一つが広いのは良いことなのだが、廊下がやたらと長いのには辟易する。冬の寒さが隙間風となってダイレクトに侵入してくる。屋外にいるのと大した差がない。そんな極寒の廊下を、給油の為に、部屋の都合上、端から端まで歩かなければならない。
 やたらと長く感じる廊下の突き当たり――私の部屋へと続く会談のあるところのちょうど反対側に、裏口がある。給油のためにはそこまで行かなければならない。元々は土間だったところを、必要ないからと潰して裏口にしたらしい。ここも、裏口というには広い。ざっと見ても私の部屋の半分くらいはある。不必要に広すぎる。そしてやはり、廊下と同様に隙間風がひどい。
 ちらりと温度計を見ると、五度を示していた。見ないほうがよかった。寒さが具体的な数字で分かると余計に冷たさが身に染みる。
 ペタペタと素足のままで廊下を歩く。相当古い家のはずなのに、不思議と床がきしむ音はしない。それだけ大工の腕がよかったということだ。少しくらいきしむほうが防犯の上でもよいと思うのだけれど。
 寒がりの私は歯の根が合わない。タンクを持つ手も小刻みに震えている。手の振動が伝わってタンクもカタカタと音を立てていた。静かなだけにその音までが大きく聞こえているような気がした。
 裏口は半分ほどが物置と化している。ビニール紐で括られた古新聞の束が幾つも積み重なっていた。前回の廃品回収に出し損ねたと見え、結構な量がたまっている。その新聞の山に隠れるようにして練炭が置いてあった。掘りごたつが引退した今となっては不要なものでしかない。白いポリタンクはそういった燃えやすいものからは離れたところにある。二つ並んでいるが、どちらの側面にも赤のマジックで大きく灯油と書いてある。
 サンダルを履いてそこに出ると、今までよりもより冷たい風が襲ってきた。灯油タンクに灯油を移し替える作業はごく簡単で、蓋を取って電動ポンプをタンクの中に入れれば後はポンプが全自動でやってくれる。勝手に灯油を移し入れ、満タンになれば勝手に止まってくれる。
 しゃがんでそれをずっと眺めているのも時間の無駄のような気がする。何やら空しさのようなものまで感じてしまう。だけどやることがないわけではなく――一週間後のテストのためにやらねばならないことだけは大量にある――給油完了までの時間があまりにも中途半端で逆に何もできない。
 溜息をついた直後、電話が鳴った。
 誰かが取ってくれるだろうと音が止むのを待った。私の耳に届いてくるのは台所に設置されている電話の音だ。ただでさえ大きい音が、反響してますます大きく聞こえる。
 ……止まない。いつまでも鳴り続ける。全く気付かなかったが、もしかすると両親とも外出しているのかもしれない。十分にありえる。私が出かけるときはうるさいのに、自分たちのこととなるといい加減なのだ。何も言わずに出かけてしまうこともよくある。
 他の家族はというと、祖母は宝くじが当たったからとハワイへ、弟は正月から合宿。……ということは、今は私一人?
 灯油タンクはそのままで、渋々電話に出た。呼び出し音が消えると、人気のない台所は元の静けさと冷たさを取り戻した。
「はい、一ノ瀬で……」
「美奈子? 僕だよ、僕。青山」
 毎日のように聞いている、どこか幼い少年のような声。
 中学校以来の友人、青山英夫だった。
 感情が態度や声に出やすい男手、電話越しでも目の前にいるかのように気持ちが判りやすい。今は、何だかぐずぐずとしている。あふれてきそうな感情を押さえようとしているようなところがある。何かあったのであろうことは容易に想像できた。
「何?」
 名を告げた後は黙ってしまった。こちらから話すように促しても反応がない。
「……」
 いらいらする。用があるならさっさと言って欲しい。その女々しい態度はどうにかして治せないのか。
「用がないなら切るけど」
 台所には火の気がなくて寒い。いつまでもここにいたいと思うのはよほどの物好きだけだろう。ましてや私は人一倍寒さに弱い。
「美奈子……」
 憂いを含んだその声音にどきりとした。いつもの何倍も大人びている。聞き慣れているはずなのに、特別に感じた。その一方で、「こりゃ振られたな」と感じていた。
「美奈子……僕は女運がないのかな」
 予感は見事に大当たり。
「加代ちゃん、一緒に初詣に行った時にはずーっといっしょにいようねって、今年も仲良くしようねって言ったのに……二人でお参りしておみくじ引いたりして……」
「おみくじは何だった?」
「末吉。恋愛は諦めが肝心ってあった。ちなみに彼女は大吉で、大きな出会いありって。そんなの両思いの僕たちには関係ないねって笑ったんだ」
「それで?」
「それなのに、それなのに……」
 鼻水をすする音。いよいよ泣き出すか。
「彼女、今日、急にもう僕とは会わないって言い出したんだ。別に好きな人ができたからって……」
 涙で最後のほうは言葉になっていない。言葉全てに濁点がついているようだ。つまり、青山はその加代ちゃんとやらに捨てられたのだ。おみくじはずばり、当たっていた。
 彼女ができたと嬉しそうな声で連絡が入ったのが二か月ほど前。今回は思っていたよりも長く続いた。女のほうはどうせ次までの繋ぎのつもりだったのではないかと思う。クリスマスや正月といった重要なイベントの多い十二月に一人というのは非常に寂しい。その加代ちゃんは恋人がいない寂しさを青山で補ったわけだ。所詮は遊び。……どうせ私には縁のない話だけど。
 一応断っておくと、青山はそこら辺の遊んでいる人間とは違う。非常に真面目な性格の持ち主で誠実。ただ、とても惚れっぽくて困る。性格年齢問わず、道ですれ違った女の子から銀行の窓口のお姉さんまで、幅が広い。更に毎回毎回本気で、そして振られるまでが早い。原因ははっきりしている。本人は自覚していないが、徹底的に趣味が悪い。
「遊び人ばかり好きになるからだよ」
「でも、僕には本気だって言った」
「本当に馬鹿正直な男ね。だまされているの」
「そんなあ……」
「情けない声出さないでよ。それだから駄目なのよ」
 目の前にいたらその情けなさに眩暈がしたかもしれない。いや、殴っているかも。
「とにかく、これから美奈子の家に行くから」
「来てもお茶は出さないよ」
 途中になっている三角関数の問題を思い出した。ノートは開きっぱなしになっていす。書きかけのグラフまで思い出して頭痛を覚える。
「いいよ、慰めてもらえれば……」
 青山はそう言って鼻をすすった。
 ならば私の横で勝手に愚痴でもこぼしていてもらおう。青山のために勉強を中断する必要はない。
 私は何気なく視線を窓へと転じた。シンクの上の窓からは、道路を挟んで向かい側の家が見える。そこは高校の国語の先生の家だった。本宮先生といい、教えていただいたことこそないが、近所ということで昔から付き合いがあった。娘が三人いるのだが、すでに皆結婚していて家を離れているため、先生は奥さんと二人で暮らしている。元々子供好きの先生は、私と弟の来訪を心から喜んでくれていた。
 高校に入ってからは何かと忙しくてあまり顔を出していない。勿論、校内で顔を合わせることもあるのだけれど、いつも簡単な挨拶で終わってしまう。明日にでも年始の挨拶に行こう。
 先生の家も、私の家と同じような日本家屋だ。薄暗くなってきたので、障子からはオレンジ色の光が漏れている。
 と、そこに黒い人影が映った。
 シルエットのみだが、私はあれは先生だろうと推測した。小柄でもなければ大柄でもない。中肉中背で歳の割にはバランスがとれている身体が、先生の体型と似ている。人影は和服を着ているようだった。しばらくの間はそこに佇んだまま、どこかに移動する気配もない。障子に向かっているのか、背にしているのか、そこまではわからない。
「美奈子ぉ、聞いてるの?」
 耳元では相変わらず女々しい声が呼びかける。
「聞いてるってば……ん?」
 人影が、動いた。左側に数歩、右を向いて後じさったように見えた。何かを押し留めるかのように、両腕を前方に突き出している。
 そして、もう一つの人影が現われた。こちらは先生――和服の人影をそう仮定する――と対照的に、洋装のようだった。痩身の男らしい。少なくともここからは胸の膨らみは確認されなかった。
 後から出てきた人影もまた、腕を突き出していた。左手は身体と重なって見えないが、真っ直ぐに伸びた右手には短い棒状の物を持っている。
 ……扇子?
 いや、違う。私は即座に否定した。夏炉冬扇という言葉があるように、今の季節に扇子はそぐわない。こんなことを考えるなんて、疲れているのかな?
 では、あれは何だ?
 人影が一歩踏み出し、その棒を先生に向かって繰り出した。先生は袂を揺らめかせ、それをかわす。
 ナイフ!
 解答はあっさりと目の前に出た。どうしてそこまで想像できなかったのだろうか。自分の間抜けさと平和さに腹が立つ。気付いたときには遅かった。オレンジ色の淡い光を放つ障子に黒い点が出現した。
 人影は更に幾度も斬りつける。横に薙ぎ、縦に振り下ろす。その度に黒い点は増えていく。先生の身体が舞っているかのように動いていた。それだけを見ていたら、先生は酔って踊っていると思ったかもしれない。
 一瞬の出来事だった。
 先生は仰向けに倒れていく。シルエットが一つに減った。残った人影は手にしたものを振りかざし、姿を消した。先生の倒れた辺りへしゃがみこんだのだ。とどめを刺しているのであろうことは容易に想像できる。また飛散した黒い点が障子を染めた。
 私は、悲鳴をあげたのだと思う。それはあまりにも甲高く、短いものだったから自覚していなかったが、あれは悲鳴という言葉以外では表現できない。青山が何か言っていたような気がする。力の抜けた手から受話器が滑り落ち、聞くことができなかった。
 今、何が起こった?
 現実を受け入れることができない。この目で見た出来事のはずなのに、信じることができない。障子の黒い模様が現実を物語っているというのに。
 私は混乱していた。電話していたことすら忘れ、とにかく先生のところへ行かないと、という気持ちばかりが先走りしている。サンダルを足につっかけ、裏口から外に出た。勢いあまって何度も転びかけたが、何とか地面に顔をこすることはなかった。
 道路を渡るとすぐそこだ。
 半ばぶつかるように玄関に到達した。ガラスのはまった引き戸を力任せに引くが、ガタガタと音がするばかりで動かない。鍵が掛かっているのだ。
「先生、本宮先生!」
 ガラスが割れてしまうのではないかと思えるほどに戸を叩くが、反応はない。奥さんは留守なのだろうか。考えている暇はなかった。私は玄関から入ることを諦め、庭のほうへ回る。私の見た障子戸は庭に面している。冬なので庭の植物は元気がない。葉が落ちて枝が剥き出しになっている。大きな木や背の高い植え込みもなく、丈の短い植物ばかりだから私の家から先生の家の様子が見えたのだ。
 アルミサッシの向こうの障子には鮮血が飛び散っている。見ていて気分のよいものではない。台所から見たままだ。アルミサッシに手を掛け……開くのをためらった。現場の保存のことを思ったからではない。その時はそんなことが思い浮かぶほどの余裕などなかった。
 この血の量だ。即死かもしれない。開けてそこにあるのは、息絶えた先生の身体なのかもしれない。それだけは嫌だ。変わり果てた先生の姿を見るのだけは絶対に嫌だ。脳裏に浮かんだのはB級ホラー映画のような映像だったが、それだけでも私は戦慄した。
 一際強い風が吹いて、ハッと我に返った。何ということを考えているのだ。それは最悪の場合のことで、この向こう側に倒れているのは別の誰かということもありえるのに。それに、死んでいると決めつけるのは早計だ。生きていたら、一刻を争う。
 アルミサッシに手を掛けたまま、私は動かない。段々と冷静になっていくのが判ったから、下手に動かないほうが良かった。わけもわからずに動いてばかりいると、余計に混乱してしまう。今は落ち着くことが先決だ。
「一、二……」
 小さくゆっくりと声に出して数え上げてゆく。慌てたときの幼い頃からの癖で、十まで数えると不思議と心の乱れは収まるのだ。数えながら目を閉じる。その目で見た事実をはっきりと思い出す。独断してはいけない。私が見たのは二つの影。一人がもう一人を棒状のもので攻撃していた。そして血が飛散して障子についた。そう、それだけだ。
「……八、九、十」
 大きく息を吐くとともに目蓋を開く。動悸もある程度収まった。いつもの冷静さを取り戻した。さて、改めて私が今するべきことは?
 電話――警察に通報することだ。常識のある一般市民であれば当然の行動だ。しかし、先生の家へは入れそうにないので、一旦、自宅へ引き返すことになる。
 急いで戻ろう。通報しなくては。
 さて、と振り向いたところで人と目が合った。私の家から見て斜向かいの家――先生の家の隣の家――のおばさんがこちらを覗いている。
「美奈子ちゃん、どうしたの? 何か音がしたけど……」
 怪訝そうに訊く。私が戸を叩く音を聞きつけたらしい。ふと、このおばさんに通報を頼もうと思いついた。そうすれば家に戻らずに済む。私は精一杯平静さを装って、
「110番してください。殺人事件かもしれません。詳しい話は後でしますから、とにかく、通報を!」
 顔にありありと驚愕が広がった。門から敷地に足を踏み入れ、「本当に?」と訊き返してくる。半信半疑なのも無理はない。平和な田舎においてそれは十分に衝撃的なものなのだから。そんな時間すら惜しいが、私はおばさんに向かって手招きすると、その手でアルミサッシを示す。
 鮮血は言葉よりも雄弁だった。
 おばさんは腰を抜かした。


 慌てておばさんが自分の家へと引き返した後、私は先生の家の周囲をぐるっと一周してみた。昨年、外壁を修復したので外観は我が家よりも数倍綺麗だ。家自体が建てられたのは同じ頃だとは聞いていたけれど、これでは我が家ばかりがやたらと古く見えてしまう。ただ古いだけならばいいのだが、今にも倒れそうに見えるのだから……
 道の角に位置している先生の家は、玄関が南側に、勝手口が西側にある。どちらの入り口も道路に面していて、私道のようなものはない。あとは先ほど私が入ろうとした庭側のアルミ戸の他は入り口らしい入り口は見つけることはできない。これで全てだ。
 一階の戸、窓を一つ一つ確認して一周し、玄関のところに戻ってきた。私は愕然としてしまった。全て施錠されていた。
 玄関、勝手口は勿論のこと、風呂場からトイレに至るまできっちりと閉められていた。それらが示すことはただ一つ――犯人とおぼしき人物は一階の戸、窓からは脱出していない。玄関は私がいたから十中八九、ここから出ることはできない。単純に考えればそう言える。
 では、二階から何かを伝って降りたのか?
 それも考えにくい。先生の家、又はその隣家には人一人を支えていられるほどの枝を持つ木はない。ロープを使った、とも考えたが、それも無理だとすぐに判った。二階の窓も当然全て閉じている。施錠されているかどうかということには自信はないが、どれもきちんとクレセント錠が落ちているように見えた。外側でロープを引っ掛けられるようなところは青い雨樋しかない。その雨樋もかなり古いようで、体重を掛けたら簡単に曲がってしまいそうだ。しかも、残念ながら全て屋根に対して水平だった。ロープでなく、雨樋を伝って降りたというのも無理だろう。
 では、犯人はどこから出たのだろうか?
 中に残っているのだろうか。この場に残っていることの危険性を判っていながら、まだこの家に留まっているのか。
 玄関前に戻ってくると、血痕を見てもまだ疑いを捨てきれないおばさんの顔があった。せわしなく視線をあちらこちらに動かしている。パトカーがやって来たら近所の人達も顔を出してくることだろう。
 私は開かない玄関の戸を睨み――青山のことはすっかり忘れていた――呟いた。
「どうして?」
 それは『どうして』この中で人が殺されなければならなかったのか、であり、『どうして』犯人は消えた、あるいはまだこの中にいるのか、であり、『どうして』私はそんな光景を見てしまったのか、であった。
 黄昏の住宅街にサイレンと回転灯が近づいてきた。

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