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雪かもしれない(3):back/小説目次

 先生の家は目と鼻の先なのに、来るまでに随分と時間がかかったような気がする。そして家にはやきもきして私達を待っている人物がいた。
 和泉さんが戸を開けると体格のいい男が出てきた。グレーのスーツが似合わないその男はテレビドラマからそのまま抜け出してきた感のある刑事だった。名前は確か茄子田とかいう。変な苗字だったから覚えている。
 昼間、私から話を聞いていた時は眉一つ動かさなかったが……今もあの時と同じ、いかつい顔である。状況が状況なだけに仕方がないものの、せめてもう少し柔らかい表情にならないものか。そんな厳しい顔と向き合っていてはこちらがげんなりとしてしまう。……まあ、それが刑事らしいところなのかもしれないけれど。
「遅かったですね。まあ、また来ていただいて申し訳ないとは思いますが」
 申し訳ないと思うなら呼ぶな! ……と言いたいところを我慢して、私は「はあ」と気の抜けた返事をした。
「そちらが、本宮さんですね。……その人は?」
 茄子田は眼光鋭く青山を見る。青山はその視線にたじろいで、あとずさった。
「私の電話の相手の青山君です」
 茄子田の前に押し出すと頭をかきながら、
「はぁ、表から見ても裏から見ても青山英夫です」
 その場にいたものは皆、どういう意味かわからないと言いたげな顔をした。しかし、それだけで誰も青山の高級な洒落につっこもうとはしない。理解できないのも無理はない。青山本人も、私にこのことを指摘されるまで気付かなかったのだ。
 とりあえず説明すると、青山英夫という名前自体が中央で線対称になっている。透明なガラスなどに『青山英夫』と縦に書いてみるといい。その前は表から見ても裏から見ても『青山英夫』と読むことができるはずだ。……しかし、注釈のいる冗談なんて面白くもなんともないと思うのだが。
「それが何だというんです。当たり前のことではないですか」
 ああ、一人だけ表情の変わらぬ人がいた。言わずともおわかりかもしれないが、茄子田刑事である。この人にだけは何年かかっても洒落が通用しそうにない。逆に機嫌を悪化させてしまうかもしれない。
「とにかく、早く話を聞かせてください。捜査は時間との闘いでもあるんですから」
 青山は少しむっとしたが、すぐに情けない顔になった。青山よ、今回ばかりは相手が悪かった。
 家の主をさしおいて茄子田は私達に家に上がるよう促した。その態度が気に食わず、私は指示に従いたくなかったが、そういうわけにもいかない。それに、いつまでも玄関で立ち話をしていても話は進まない。私は渋々スニーカーを脱ぎ、上がらせてもらった。
 家の中にはまだ血生臭い匂いが漂っているような気がする。そこには殺人者の残留思念も残っているのかもしれない。我知らず、悪寒を覚えて両肘を抱えていた。
 私と青山は本来ならば客間として使われるはずの和室で身の潔白を証明することになった。中央に置かれたちゃぶ台を挟んで、私達二人と茄子田刑事が向かい合う。茄子田刑事の隣には眼鏡を掛けた、サラリーマンにしか見えない刑事も座っていた。
 このような状況で話すのは初めてではない。事件が起こり、警察が到着した直後にもこうやって茄子田と向かい合っていた。あの時はさすがの私も、初めて立ち合う凶悪犯罪に緊張し、恐れ、混乱していた。自分では冷静になっているつもりでも十分ではなく、短い間の出来事を話し終えるのにもだいぶ時間がかかった。今は落ち着いている。時間は最高の薬だ。
 二度目である私はある程度この空気に慣れていたが、青山はおどおどしている。平和に生活してきた男子高校生は警察とはおおよそ無縁だったのだ。二人の刑事から受けるこの何とも言えない威圧感(プレッシャー)は不快感にも似ている。冬場だというのにじっとりと汗がにじんできそうだ。
 見たそのままを一切の脚色抜きで話す。私はそれだけでよかったが、青山は随分と言いにくそうだった。何故電話したのか、と聞かれたのだ。しばらくは迷っているようだったものの、つっかえながらも渋々理由を答えた。その一瞬、茄子田の眉がわずかに動くのを見た。
「……失恋? あなたと一ノ瀬さんはそういう関係ではないのかね?」
「違います。私と青山は中学の時からの『親友』なんです。近すぎてお互いを恋愛の対象として見ることができないんですから」
 私の強い否定に青山がかくかくと妙な具合に首を上下に振った。
「男と女でも『親友』だと」
 茄子田はまだ信用できていないようだが、それ以上何も言ってこなかった。そう、男女間の友情が必ず愛情に変わるというわけではないのだ。すぐに恋人同士だと思うのは、下らない勘繰りにすぎない。
 サラリーマン然とした刑事は自ら質問を発するでもなく、ただ下を向いてメモを取っている。時々疲れたような息を吐きながら。
 簡単な質問の答えであっても、何かと突っ込まれた。つまらないことにちくちくとケチをつけてくる。私はもううんざりして、早く解放してくれることだけを願っていた。だから、「もう、このくらいでいいな」という茄子田の呟きが聞こえたときには、内心で小躍りしてしまったくらいだ。
 しかし、帰ってよいという許可が出たのにもかかわらず、青山は立ち上がらないでぐずぐずしていた。帰ろう、と腕を引いても、ちょっと待って、と言うばかり。その様子を見ていた茄子田は、
「こちらとしても早く帰ってもらいたいんですがね」
 といらいらした風に言った。青山は鋭い眼光にもめげずに座り直し、
「ねえ、刑事さん、密室なんて有り得ませんよね」
 と、いつになく真面目な口調で切り出した、
「ああ、私はそう信じているが……」
「鍵は入るために使われたのではないでしょうか」
 驚いて、私もまた座り直した。青山の言わんとしていることに興味をひかれたのだ。茄子田もそのようで、岩のようだった顔面の眉間にしわが寄っている。もう一人の刑事も驚愕を隠せずに顔を上げ、青山を凝視した。
「どういうこと?」
 青山は私のほうを向いて気弱に微笑んでから、また正面――刑事二人に向き直り、
「僕の勝手な想像ではあるんですが……犯人がわかったような……気がするんです」
 と実に自信のなさそうに頭をかいた。
「……君の話を聞かせてもらえるかな」
 刑事はちゃぶ台に肘を突き、手を組んだ。
「はい、その……つまり密室は存在しなかった、ということなんです。犯人は大塚賢太郎さんが家に一人になることを確認すると、持っていた勝手口の鍵で中に入り、殺人を犯した……と。そしてそれからずうっと家の中に潜んでいて……」
「ちょっと待て。その鍵はどうやって手に入れたんだ?」
「家から出る時に持って出たんです。玄関と違って勝手口の鍵を持ち歩くということはあまりありませんから、気付かれなかったんでしょう。家に忍び込んだら……後は必要ないから元に戻しておけばいいことです。そしてしばらくは潜んでいた犯人でしたが、頃合を見て野次馬にでも紛れて脱出した・・・・・・とか」
「それは、家人でなければできないということでは……?」
「そう、です。多分本宮先生では……ないかと思います」
「ちょっと青山! 何ふざけたこと言ってるの。先生がそんなことするわけないじゃない!」
 突然大声を出した私に申し訳なさそうな視線を送って、青山は泣きそうになりながらも続ける。
「本宮先生以外には考えられないんです。先生は今朝一人でお出かけになられたと言いますし、何より『お寿司をもらったから台所に立つ必要がない』という連絡こそが……そう携帯電話で連絡して人を台所から遠ざけ、脱出したのではないでしょうか」
 信じられない。私は頭を抱え、うなだれる。
「では、潜んでいたところというのは?」
「台所の……何て言うんですか? あの、味噌とか醤油とか入れておく床の倉庫のような……」
「床下収納庫」と私が教えると、「そう、それ」と手を叩く。
「成程……おい、飯島!」
 突然茄子田に呼ばれてサラリーマン刑事はしゃっくりのような返事をした。
「念のために床下を調べてみてくれ。この子の言うとおりならば凶器が残っているかもしれない」
「はい、わかりました」
 手帳とペンを懐にしまてから、飯島は襖を開けて出ていく。
「美奈子……美奈子?」
 青山が私の肩を揺する。私は……私は青山の仮説の全てを打ち消してしまいたかった。本宮家の誰かが犯人だというところまで考えが及ばなかったのだ。……いや、そういうことだけは絶対にない、と信じていた。あの柔和な先生の顔の下に凶器が潜んでいるとは、全然思えない。思いたくない。
「美奈子、ごめん。僕にはどうしてもこうとしか思えなくて……」
 泣きそうな、崩れた声で青山は言い続ける。私に謝ってもしょうがないのに……
 涙なんて出てこない。驚きが悲しみを越えてしまった。頭の中が真っ白になりそうだ。考えれば考えるほど、否定の言葉がこぼれ落ちていく。……真っ白になってしまったほうが何も考えずに済んでいいのかもしれない。
 ちゃぶ台のきれいな木目も否定してしまいたような、嫌な気分だ。
 にわかに家の中が騒がしくなった。私は強引に現実に引き戻される。どたばたと何かが走る音と、警官達の騒ぐ声とが聞こえる。その騒がしさに茄子田は立ち上がり、「何があった!」と大声で叫ぶ。それに重ねて「あっちに行ったぞ!」という飯島のものと思しき声も聞こえた。
 茄子田は飯島の出ていった襖を開ける。と、唐突に茄子田の身体がよろめいた。私達の位置からでは巨漢の茄子田が入口を塞いでしまうため、何が起こったのか正確に把握できない。「どうしたんですか?」
 青山がそう声をかけたとき、茄子田がうめいて畳の上に膝をついた。右肩が赤く染まっている。そしてその奥には血のしたたる柳包丁を下げた痩身の男の姿が――
 男は血走った目で私達二人を睨みつけていた。息は荒く、肩は上下し、その身から殺意と狂気の混じりあったものを発散させている。もとはグリーンだったのであろう作業服は飛び散った血が凝固して茶色になっていた。
 こいつだ。こいつが大塚賢太郎を殺したのだ!
 警官達は何をしているのだろう。この男を取り押さえなくて。それともこの茄子田のように皆怪我を負わされてしまったのだろうか。
 男は全てを見失っているように思えた。本当に私達のことが見えているのかすら、はっきりとしない。時折目の焦点は私達を通り過ぎ、遥か彼方に合わせられているようにも見える。
「ちょっと……嫌な状況だね」
 青山は息を飲む。私はうなずくこともできず、男がどう動くか、それだけに集中していた。だらりと垂れ下がった腕の中で包丁は不気味に光を反射している。
 男は茄子田の身体を蹴り上げ、畳の上に転がした。苦しそうな息を茄子田は漏らす。敷居をまたぎ、一歩、また一歩近付いてくる。私達も立ち上がり、じりじりと後退していったが、背中に押し入れの薄間が当たった。これ以上は下がれない。
 男が包丁を構える。
「青山、あいつがこちらに向かってきたら……左に逃げて。わかったね?」
 男には聞こえないほどの小さな声。青山はうなずく。これが最善策などとは思っていない。しかし、今の私達に何ができるのだろうか。武道の心得があるわけでもない、素人の高校生二人にはただ逃げることしかできない。
 そして――男は包丁を振り上げ、突進してきた!
 私は右に、青山は左に避ける。包丁は富士を描いた襖に大きな裂け目を作り、男はまともにそこに突っ込んだ。紙が裂け、骨組みが大きな音とともに折れる。
「大丈夫か!」
 入口に飯島と幾人かの警官の姿を認めた。それぞれ身体のどこかに怪我を負っているものの、それほど深いものでもないようだ。
 しかし、飯島は少しばかり遅すぎた。男は信じられないほどの速さで身体を反転させると、再び襲いかかってきた。それも、飯島達が来たことで心に油断が生じていた青山に―― 青山の左脇腹に包丁が突き立つ!
「――青山!」
 私の叫びと同時に警官達は男に覆い被さっていく。男はもがいて抵抗するが、ほどなく両手足の自由を奪われた。身動きの取れなくなった男の手から凶器が離れる。後ろ手にされ、手錠がはめられた。それを確認すると、私は慌てて青山に駆け寄った。
「救急車!」
 飯島もまた、そう言いながら上司の様子をうかがう。
 青山は、刺されたところをスタジアムジャンパーの上から手で押さえ、唸っている。
「青山、青山!」
 私の呼びかけにうっすらと目を開き、朦朧とした口調で、
「まさか、こんなことになるとは思わなかった……死ぬ時って痛くないんだね……」
「青山!」
「……家のウズラ……僕の代わりに面倒見てやってくれる? 最初はつついたりするかもしれないけれど……大丈夫、すぐに慣れるから」
「馬鹿! 何言ってんの! 死んだりするわけないでしょうが」
「でも血が――」
 青山の身体に触れると、ぬるっとした血液の感触が――「あれ? 血が……出てない」
「は?」
 あれほど勢いよく刺されたのならばどばっといってもおかしくはないのに、血は全くと言っていいほど出ていない。
「え? どういうこと?」
 青山は左ポケットを探り始める。そこには――そこから割れた青い指輪のケースが転がり出てきた。加代ちゃんから返却されたという未練の残っている指輪が入っているはずの。
 そして青山は気を失った。


 病院特有の消毒液の匂いが鼻につく。無機質で清潔な白い病室にはベッドが二つ並んでいた。窓側にはむっつりとした顔の茄子田刑事が、入口側には青山英夫が、それぞれ横になっている。
 右の二の腕から肩にかけて包帯でぐるぐる巻きにされている茄子田とは対照的に、青山は怪我らしい怪我もない。気絶してしまったために、とりあえず運ばれただけだ。先ほどから申し訳なさそうな苦笑を浮かべている。
 私と本宮先生、飯島刑事の三人は二人の付き添いとしてここにいた。私は青山の情けなさに涙が出てしまいそうだった。
 結局、刺さった包丁は指輪ケースに直撃し、勢いを削がれて青山の身体そのものには大して傷を付けることができなかった。ケースを開けてみたところ、安物だったのか、銀色の指輪は真っ二つに割れていた。
「きっと、加代ちゃんの最後の愛だったんだよ」
 青山はそう言ったけれど、私には偶然としか思えなかった。都合のいい偶然もあったものだ。
 あれから何時間か経っている。すっかり真夜中という時刻になり、いつもであれば私はすでに床に就いている時間だ。病院もすでに消灯しており、本当ならばこうして二人についていることはできないのだが、特別に許可してもらった。
 あの男は大塚賢太郎氏の高校時代の同級生だったということが判明した。男の自供によると、宅急便の配達を装って玄関を開けさせた、ということだ。青山が想像したように鍵を使ったのでも勝手口から入ったのでもなく、正々堂々と玄関から入ったのだ。玄関から入って大塚氏を持参した柳包丁で滅多刺しにしたのだという。それから逃亡しようとしたところ、私がやってきたため逃げるに逃げられなくなり、やむなく台所の床下収納庫に身を潜めた――真相は何とも簡単なことだった。
 動機は、高校の頃から虫酸が走るほど嫌いだったから。
「先生――」飯島が報告を終えると、私は傍らの本宮先生に聞いた。「――どうしてそれほどに賢太郎さんが憎かったのでしょう? 和泉さんは人からの恨みを買うことなどない人だった、とおっしゃっていたのですが――」
「人間的に素晴らしかったからだよ。私も彼は人格者だと認めていた。こんな人に娘をくれてやることができるなんて幸せだ、とね。だが、素晴らしい人間が近くにいると、逆に己に劣等感を抱いてしまう。この人はできるのに自分はできない、ああ、なんて自分は駄目な人間なんだ、と思ってしまうもんだ。君にもそういうことがあるだろう?」
「テストが返却されるときはいつもです」と私は苦笑する。
「そういうとき、自分よりも優秀な人間がいなくなれば自分が一番になれる。そう思ってしまうだろう。その思いが強い憎しみとなって現われたのだろうね。もしかすると、その男は高校時代、賢太郎君のおかげでいつも二番だったのかもしれない」
「そんなものですか?」
「そんなものだよ。人間というのは実に複雑で奇妙だからね」
 本当に人は奇妙だ。複雑な感情を有し、時に思いもよらぬ行動を取る。それは人を傷付け、悲しみを作り出すこともある。茄子田や飯島は常にそれに立ち向かっている。私はぼんやりと、今更ながらに警察の必要性の偉大さを感じていた。
「先生――」上半身を起こし、青山はいつものように頭をかいた。「――ごめんなさい。先生が犯人など疑ってしまって……」
「気にしなくてもいいよ。事件は解決したのだから、それは水に流そう」
 優しい先生の言葉に青山はうつむき、「ありがとうございます」と小さく言った。
「雪ですね……」
 飯島が窓のほうを向いてそう呟いた。いつの間に降り出したのだろうか、皓々とした水銀灯の光線の中を、白い雪の結晶が舞っている。少しずつ、少しずつ、夜の闇を白いものが覆い尽くしていく。
「やっと冬らしくなるな」
 それまで黙り込んでいた茄子田も上体を起こし、窓の外に見入っていた。


 どうせ怪我ひとつないから、と青山はあっさり帰宅許可を出された。茄子田と飯島に別れを告げた頃には黎明まであと数時間だった。
 薄暗いロビーを私と青山と本宮先生は並んで歩いた。ロビーの向こう側――救急室のある辺りだけは明るい。真夜中の病院を見るのは初めてだった。想像よりも遥かに多くの人々が夜間救急を訪れる。暗いロビーにいれば死んでいるようにしか見えない病院に、眠る時間はない。病気や怪我は人を待っていてくれはしない。
 救急室のほうを見ながらそんなことを考えていると、「あ」と声を上げて青山が急に立ち止まった。何事かと振り向くと、その手にもう役目を果たすことのできない指輪ケースがあった。
「それ、どうするの?」
 青山はしばらくそれを見つめていた。命を救ってくれた失恋の記念品は物を言うはずもなく、ただ青山の視線を受け止めている。
 無言でゴミ箱に投げ入れた。
 からんという音がスイッチを切り換える。
「じゃ、帰ろっか」
 明るい青山の声に言いたい言葉を飲み込んで、
「そうだね、早く帰ろう」
 私は親友に微笑みかけた。

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