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雪かもしれない(2):back/小説目次/next

 一通りの事情聴取が終わると、私は家へ帰された。
 今や周囲は大騒ぎとなっている。正月だからか暇な人々は集まるのが早い。交通の邪魔になるほどの人の山。時折、クラクションを鳴らして自動車が通っていく。初詣の人混みを思い出してうんざりとした。本当に、日本人は他人のこととなると好奇心が旺盛だ。
 人垣をかきわけていくと、色々と声を掛けられた。
「誰が死んだの?」
「死体、見た?」
「よく平気でいられるね」
 どこからか私が目撃者だと漏れ聞いたようで、私の陰鬱な気分も知らずに質問を浴びせかける。そうでなくとも、家の中から私のような小娘が出てきたのだ。どんな間抜けでも関係者であるということは簡単に想像できる。
「すみません、通してください!」
 腕を掴む誰かの手を振り払い、ひたすら無視を決め込む。こんな野次馬に構ってなどはいられない。一刻も早く事件とはかけ離れたところに身を置きたい。家で落ち着きたい。
 しかも、今の私は飛び出した時の格好そのままなのだ。用意のいい野次馬の皆さんのようにコートを着てもいないし、手袋もしていない。白いハイネックのセーターにグレーのコットンパンツ、そして素足にサンダル。寒い、寒すぎる。
 すでに勉強を続ける意欲は失せていた。近所がこれだけ騒々しければ集中できない。どうにか自宅前まできた私は、大きく息をつく。勉強への諦めと、警察が乗り出してきたことの安心感とに対して。また風が吹いて、私はその冷たさに震えた。早く家に入ろう。
 裏口の引き戸を開けると、灯油タンクが私を待っていた。あ、忘れてた。
 ポンプはすでに止まっていた。赤いボタンが自動で元の位置に戻っている。ポンプの先端を引き上げると、タンクの中へ二、三滴落ちた。何回か上下に振るとまた数滴落ちてくる。そうやって灯油の雫が落ちてこなくなるまでしつこく繰り返してから蓋をする。専用のキャップがあるので、蓋の開け閉めは楽である。手に灯油が付く心配はない。これを二階の我が部屋にまで持っていかなければならない。
 給油口はタンクの下部についている。従って、給油する時は把手が下になるようにして立てておく。今はそういうふうに立っている状態だ。これをひっくり返さねばならない。側面を持って、タンクをそろそろと持ち上げて、把手を掴むことができたのならば、勢いをつけて上下をひっくり返す。中で石油が物理法則に従って一気に下がった。右腕に力がかかる。
「お、重い……」
 だからファンヒーターは面倒だ。せっかくの古い家の外観を損ねるからとかでエアコンを設置しないのがいけない。両親はホットカーペットにコタツを使っている。スポンサーは私の苦労など知らないのだ。
 両手で把手を掴むと片腕にかかる力は半分になる。まあ、私そのものにかかる力は変わらないのだけれど、何となく楽になったような気はする。そして寒くて長い廊下を渡る。持っているものの重量があるだけに、来たときよりも長く感じた。
 すっかり冷え切った自室にいつまでもいる気はしなかった。タンクをファンヒーターに納め、机の上の勉強道具を片付けた。電気スタンドを消すと、外はもう夕闇に覆われていることがはっきりと判った。窓から見える街灯が貧相な明かりを灯した。その淡い光が哀愁のようなものとともに部屋に入ってくる。それとも、そう感じるのは感傷的になっているからなのだろうか?
 部屋も廊下も変わりなく、同じくらいの寒さだ。自室だけではない。この家全てが冷え切っていることだろう。恐らく、この広い家に私はたった一人なのだ。火の気など全くない。
 一人はあまりにも寂しいので居間でテレビを見ることに決めた。つまらない正月番組ばかりであろうことは判っているが、どうせもう勉強はしない。それにどうにも気分が滅入ってしまっている。孤独に自室にこもっているよりは遥かに有意義ではないかと思う。
 目と鼻の先であんな殺伐とした事件が起き、家から出ればたくさん人がいるというのに私は何で一人で家にいるのだろう。ああ……寂しい……
 ――あれ?
 一階に下りてきた時、居間からテレビの音が漏れ聞こえてきた。お笑い番組のようだ。観覧のわざとらしい笑い声が聞こえる。弟は合宿中だからまだ帰ってくるはずがないし、祖母も今頃は南国の空気を満喫していることだろう。両親――特に父――はお笑い番組を嫌っている。
 テレビの消し忘れ……でもない。灯油タンクを持って廊下を歩いていたときには聞こえなかった。野次馬の声に紛れていた、ということもない。今、人のざわめきとテレビの音は全くの別物に聞こえるからだ。
 誰? もしかすると、殺人犯?
 また何と妙なことを思いつくのだ、私は。警察が必死になって捜している人間がこんなところでのんびりとテレビなんぞを見ているものか。ここで油を売っている時間があるのならば、少しでも遠くへ逃げたほうが得策というものだ。空き巣も同様。盗る物を盗ったらさっさとおさらばするのが普通。
 犯罪者ではない。そう決断した。
 それでも念のために、と忍び足で近づいて、思いきって今の戸を開ける。
「あ、明けましておめでとう。勝手にあがらせてもらったから」
 モスグリーンのセーターを着た同級生――青山英夫がそこにいた。しっかりとコタツに入り、どこから見つけたのか蜜柑と煎餅をその上に載せ、果ては自分にお茶まで入れている。
 テレビでは、やはりお笑い番組を放送していた。狭い画面の中を茶色の髪の青年があっちへ行ったりこっちへ行ったり、転んでみせたりと実にせわしない。
「勝手に上がらないでよ……驚くじゃないの」
「呼んでも返事をしない美奈子が悪いんだよ。大声出して『美奈子ちゃーん』って言うのって恥ずかしかったんだよ。あんなに人がいるし」
「恥ずかしいならやめなさい」
「でもさあ、電話の途中で急に無言になったから、何があったのか気になったんだ。家から急いできたんだよ? こんなに友達思いな僕に感謝してよ」
 たしかに、青山の自宅からここまでは結構な距離がある。歩けば三十分は要するだろう。
「ねえ、感謝してる?」
 向かい側に座った私を上目遣いで見てくる。顎をコタツに載せたその態勢は、小動物を思わせる。ひょっとするとその辺の女の子よりも可愛いかもしれない。同級生のはずが、随分年下に見えるのが彼の特徴だ。単に子供っぽいだけかもしれないが、私にはそれだけだとは到底思えない。
「はいはい。感謝しています」
「本当に?」
「本当に」
 少々投げやりな口調だったか。青山は唇を突き出し、
「美奈子、拗ねてない?」
「は?」
 拗ねているのは青山のほうでしょう? そう言いたくなるような顔をしている。
「どうして私が拗ねなきゃいけないのよ」
「だって……振られては毎回こうして慰めてもらいに来るから……いい加減にイヤになっているんじゃないかなあ……と」
 青山が来た理由を思い出した。その割には大して不幸そうでもないし、どちらかというと普段と同様にあっけらかんとしている。喉元過ぎれば熱さを忘れるか。
「拗ねていないし、怒ってもいないよ」
 私は蜜柑を剥く。ここ数日、爪を切るのを忘れていたため、剥くのが楽だった。ただ、爪の間に皮が入るのが困り物であったが。
 で、剥いた蜜柑を食べながらそう言うと、安心したのか、青山は息を吐き出して煎餅を一枚掴んだ。手の中で二つに割ると、両手に半月の煎餅が一つずつ。その内右手のほうの半月を口に入れる。どことなくその仕草は子供染みていた。
 お茶をすすると湯呑を私のほうへ押し出してくる。来客用の白磁の湯呑の中は、底のほうに微小の茶葉が残っているだけだった。私に新しく注げということらしい。私は茶葉を入れ替えずにそのまま急須に湯を注ぐ。もうほとんど出枯らしで、色が薄い。
「ところでさあ……あちち」
 青山は湯呑を手元へ引き寄せようとしたが、結構熱かったようで、私との間のちょうど真ん中にまで持ってきたところで手を離した。
「茶托でも出せばよかった?」
「いや、いらない。――ところで、何かあったの?」
「何かって?」
「外、人がいっぱいいる」
 青山は自分の背後――つまり戸外を指差す。
「いっぱいって……何も知らないの?」
「うん」
「パトカーなんかを見て、ああ、何かあったんだなぁとか思って誰かに訊いたりしなかったの?」
「思ったけれど、訊かなかった。知らない人の家だから僕には無関係だろうし。ただ、何となく大変なことが起きたのかなぁとは思った」
 そうだった。高校が違う青山は本宮先生とは何の繋がりもない。面識もない。
「おめでたい奴ね」少し大げさすぎるかなと思うほど盛大に溜息をつき、「青山には無関係でも私にとってはあり過ぎるほどに関係があるの」
 そして自分が見た光景をそのまま話して聞かせた。刑事に何度も聞かれたので要領良く話せるようになっていた。あまりこういうことには慣れたくないものだ。繰り返して話しているうちにあの背筋の凍るような光景も、ぼんやりと曖昧なものになりつつある。最初は思い出すことさえも嫌だったのに、すっかり平気になってしまっている。ある意味では、これが人間の冷酷さなのかもしれない。
 鍵は全て掛かっていた、というところまで話が進んだ時、黙って聞いていた青山が口を挟んだ。
「本当に? 鍵が掛かっていたのはたしかなんだね?」
「うん。あの家で外から鍵を掛けられるところは勝手口と玄関だけなんだって。勝手口の鍵は家の中にあったって言うし……玄関のほうには私がいたでしょう? 犯人は出られなかったはず」
「ところが、警察が踏み込んだときには家の中には死体だけ……」
「その通り」
 私の顔はテレビの方向に向けられていたが、観るという意思がないので誰が映っているのかなど判らない。カラーの溢れる箱はまともに見る人間もいないのに光を撒き散らしている。
「死体は誰だった? やっぱりその本宮先生という人かな」
 私は首を横に振る。
「違う違う。先生の長女の旦那さん。大塚賢太郎という人。会ったことはないし、直接死体を見たわけじゃないから全然顔とか知らないけどね。その賢太郎さんには悪いけれど、本宮先生でなくて私は安心したわよ」
「影を見た時は先生だと思い込んだんだっけ?」
「絶対そうだと思った。似たような体型の人っていうのはたくさんいるのにね」
 私が苦笑して言うと、
「和服だったから、というのもあるかもね」
「何で?」
「和服というのは結構、身体の線を隠すものなんだ。ほら、時代劇を思い出してみなよ、みんな似たような体型だろう?」
 テレビのチャンネルを変えてみると、折りよく時代劇をやっている局があった。二時間スペシャルのドラマのようだ。画面には活気溢れる江戸の町が映し出されている。
 成程、青山の言う通りだ。余程太っていたり、病的なまでに痩せていたりしなければ、同じような姿にしか見えない。和服は外観がゆったりとして見えるものが多い。袖は洋服のようにぴったりとしていないので腕の太さ、細さは判らない。足も太ももやふくらはぎがしっかりと隠れている。そういえば髪型まで皆同じだ。街娘でも商人でも武士でも、はっきりと顔が現われるように結い上げている。今は街に出ればロングヘアやショートカット、黒髪茶髪にスキンヘッド、と一人一人が違う。それだけ自由な時代になったということなのだろう。だが、江戸は本当にこんなドラマのような街並みだったのだろうか?
 ……身体のラインが判らないとは、和服はいいものなのかもしれない。最近流行しているミニスカートが似合わない体型の私でも、和服ならばあまりコンプレックスを感じずに着られるはずだ。
「うん、いいこと聞いた」
「何を考えているのか知らないけど、一応忠告しておくよ。和服は女らしい人が着てこそ、その服そのものが際立ってくるんだからね」
「私が女らしくないとでも?」
 青山が取ろうとしていた最後の一個である蜜柑をぱっと横からさらった。素早く皮を剥いて一房口の中に放り込んだ。甘酸っぱい香りが広がる。残りものには福がある、というが、まったくもってその通りだと思う。この蜜柑、今までで一番おいしい。
 取られてしまった人のほうは、世界の終わりでも来たような、泣き出しそうな顔をしている。
「譲ってくれたっていいじゃないかあ……僕は一応お客だよ?」
「勝手に上がり込んでいたお客だけれどね。それに、紳士は婦人を優先させるものよ」
 反論すると、さらに背を丸めて私から視線を逸らした。「僕はまだ紳士なんて年齢じゃない」小さくそう呟いて。
 しばらくは二人でその時代劇を見ていてた。特に変わった内容でもなく、定石に乗っ取ったストーリー展開で簡単に先まで読めてしまう。あまり面白くない。ラスト近くの山場となると、予想通り、殺陣が始まった。主役の侍が右へ左へ刀を振るい、名もない脇役たちが次々と倒れていく。どこかで見たような光景だ。
「――ごめん、消していいかな?」
 気分が悪くなった。血こそ出ていないものの、侍の動きは大塚賢太郎を殺した犯人の動きとそっくりだった。凶器を左右に振る、突き出す、振り下ろす。その動作全てがあの光景をはっきりと思い出させる。
 言わずともすぐに理由に気付いてくれて、リモコンで消してくれた。一瞬で画面が反転し、ブラックアウト。「大丈夫?」と瞳が私に問いかけてくる。さすがに五年間の付き合いとなると意志疎通を図るのも楽になる。
「見たこと以外に知ってることは?」
「は?」
「向かいの家の事件のことで、だよ」
 ああ。ぼうっとしていたからそう聞かれても咄嗟に反応できなかった。
「知りたいの? 無関係なのに」
「無関係だからだよ。僕だって好奇心くらいはあるんだから」
 私に笑いかける。言葉にしなくとも、早く話せと催促しているのがわかる。
「君もそこら辺の野次馬と変わらないんだね」呆れたように私が言うと、
「そんなものだよ」とあっさり肯定した。
 ふうん、と言って私は警察や本宮家の人達が話していたことを整理して話し出した。
「ここからは聞いた話だけど……」
「盗み聞きしたんだ。趣味悪いなぁ」
「偶然、耳に入ったの。あまり変なこと言うと話してあげないからね」
「ごめん、僕が悪かった」
「素直でよろしい――で、事件当時の様子だけど、当然家の人は誰もいなかった。先生は朝から知り合いの家や本屋へ行ったりしているらしいわ。現在形で言ったのは、私が帰ろうとした頃にはまだ帰ってきていなかったからで、深い意味はないからね。先生の奥さんは和泉さんと一緒にショッピングしていたとのこと」
「和泉さん?」
「先生の娘さんで大塚賢太郎さんの奥さん。正月だからって昨日帰ってきたんだって。家の戸締りはその和泉さんと奥さんの二人で確認して、玄関の鍵は奥さんがずっと持っていたそうよ」
「ちょっと待って、賢太郎さんが中にいると判っていて鍵を掛けたんだね? 留守番がいるなら必要ないと思うんだけど」
「私も始めはそう思ったわよ。だけど、賢太郎さんは留守番としては役に立たなかったのよ」
「どういうこと?」
「昨日の夜、先生と飲み比べをして酔い潰れちゃって、ぐーすか眠っていたんだって」
「家の人が出かけるときも?」
「出かけるときも。仕方ないから放っておいて、防犯のために鍵をかけようと考えたわけね」
 ここで一口、お茶をすする。喋っていると喉が渇く。すっかりぬるくなったので入れ直そうと茶筒の蓋を取るが、ない。茶葉はなくなって、筒の底が丸見えだ。
「私も――」
 電話が鳴った。話が途中なのに。一瞬遅れて台所のほうの電話も鳴り始める。私は舌打ちすると青山に向かって軽く謝り、振り向いて背後にある受話器を取った。
「はい。一ノ瀬で――何だ、父さんか」
「何だとは何だ」
 かなり呂律が怪しいが、毎日聞いている声だった。これは呑んでいるようだ。父の背後の音に耳を澄ますと中年のおじさんが演歌を歌っている声が聞こえる。
「娘を一人置いて、何処にいるの?」
「実家だよ、実家。母さんの実家」
「そうよー、美奈子ちゃん、元気?」
 やたらと陽気な母が割り込んできた。この母もまた、大して強くもないくせにアルコールが入っている。発泡酒一本で顔が赤くなってしまうような人なのだ。
「いやー、自動車で来たのは失敗だったよ。挨拶だけのつもりだったのが、いつの間にか酒を飲んでいてね……」
「お正月ですもの。それくらいいいわよぉ」
 ケラケラとさも楽しそうに母は笑う。夫婦でこの様子では、今日中の帰宅は望めない。
「黙って行ったりしないでよ。本宮先生のところは大変なことになっているっていうのに……」
「気にするなって」
 気にするよ。
「それとも、一人は寂しいか? だったらこっちに来いよ。まだ電車もバスもあるしな」
 行ったら飲まされることはわかっていた。酒の席というのは法律が通用しない。アルコールで判断能力までもが衰えた大人たちに勝てるはずがない。私がいくら『未成年』を主張しても聞いてくれず……考えてみると嫌な親戚だな。
 私は嘆息し、「一人じゃないから」と言った。
「何? 男でも連れ込んでいるんじゃないだろうな」
 いきなり鋭い声になった。隣で母が「まさか」と笑っているのが聞こえる。
「男と言えば男だけどね。青山が来ているの。青山英夫」
「ああ、青山君か。青山君なら安心だな――電話替われ。挨拶がしたい」
 付き合いが長いからか、青山は私の両親から絶大な信頼を得ている。それは娘以上とも思える。いや、この歳の男にしては珍しく、裏表のない素直で純粋な子供っぽい性格だからだろうか。
 青山に受話器を渡した。きょとんとした顔をしていたが、両親だということを言うと、慌てて耳に当てた。
「あ、明けましておめでとうございます。青山です」
「おう、おめでとう」
 父の声はやたらと大きい。受話器から音が漏れて聞こえる。その大きさに青山はわずかに顔をしかめ、耳から少し受話器を離した。
「煮ても焼いても食えない娘だが、今年もよろしくな」
 私には煮られるつもりも焼かれるつもりもましてや食われるつもりもない。酔いの勢いで普段の生真面目さが消し飛んでいる。どれだけ飲んだのやら。
「何だったら今夜一晩泊まっていきな。俺たちはいつ帰るかわからないし、お前さんなら美奈子を襲う危険性もないからな」
 青山は今一つ歯切れのよくない返事をしている。嫌ならば嫌とはっきり言えばよいものを。それとも私の親だからという遠慮があるのだろうか。
 私は青山の手から受話器を奪った。
「あまりふざけたこと言わないでよ。青山が困っているじゃないの。私は大丈夫だから。もう切るからね」
 酔っ払いには付き合っていられない。まともに相手しているとこっちが疲れてくる。
「変な両親でごめんね。アルコールが入っているみたい」
 青山は苦笑いをしてぬるくなっているであろうお茶をすすった。
 私はちょっと中座させてもらうと、冷蔵庫から良く冷えたオレンジジュースを出してきた。お茶ばかりでいい加減飽きてきた頃だったし、居間は暖かくて冷たいものが飲みたくなっていた。氷を浮かべたジュースを半分くらい飲んでから、
「ところでどこまで話した?」
「防犯のため、賢太郎さんがいたけど鍵を掛けたというところまで。『私も』と言いかけたところで電話がきたんだ。その後は何?」
「私もそうするだろうね、と言いたかっただけ。さて、勝手口に面しているほうの道だけど、そこでは不信な人物は目撃されなかった。ちょうどその頃、その向かいの家で立ち話をしていた人達がいてね、その人達は誰も見なかったらしいの。鍵は掛かっているのに犯人は消えてしまった――いわゆる、密室殺人というやつね」
「小説じゃあるまいし、密室なんて現実では有り得ないよ」
「魔法でも使って消えたとしか思えないじゃない」
「魔法だなんてますます現実味がない」
「そうやって笑っているけどね、君にはこの状況にうまい説明がつけられる?」
「……わからない」
「ほら、そうでしょう。現実的でないと言っても実際に起こってしまったんだから」
 知っていることはこれで全てである。芝居がかかった調子で両手を開いて終わりを示す。
「随分と厄介なんだね。解決されるのかな」
「さあ。日本の警察は優秀だって言うけどね」
 時計を見ると、いつの間にか長針が一回転していた。時が経つのは早い。時間がわかるとさっきまで色々と食べていたのになんだかお腹が減ったような気がする。
「ねえ、ご飯食べていくでしょう?」
「んー、どうしようかなぁ」
 青山は迷っているけれど、私は食べていってもらうつもりだった。夕食を一人で食べるのは寂しすぎる。青山を居間に残して台所へ行こうとしたとき、「こんばんわ」と声がした。
「お客様」と青山は自分の背後――通りに面した北側の入り口――を示す。
 家相上の問題で玄関は南側にあるのだが、そこは道路から離れていて不便である。どちらかというとこの北口のほうが出入りが便利で、家族は勿論我が家への訪問者も皆、北口を利用している。
 扉を開けると女性が立っていた。薄茶のウールのカーディガンを羽織ったその人、長く伸びた黒髪が印象に残る。モデルのように背丈があるのでそれほど痩せてはいないはずなのにすらっとして見える。本宮先生の長女であり、若くして未亡人となってしまった和泉さんだ。文学少女だった頃の面影が残っているその顔には、無理をしているとわかるような笑顔があった。悲愴は隠しきれない。
 その後ろにもう一人、見知らぬ男がいた。制服警官だった。
「この度は、その……」
 和泉さんの悲しげな姿を見るのは辛い。何と言っていいのかわからず、私は口ごもる。
「困ったことに巻き込んでしまってごめんなさいね。私にも……どうしてこんなことになってしまったのかわからなくて……」
 表情が曇る。伏目がちの瞳に涙がたまっている。
「あの、本宮先生は……」
「まだ帰ってきてないの。一時間ほど前に電話があったからそろそろではないかしら。その時はまだお友達の家にいたようで、賢太郎さんの事を話したらとても驚いていたわ」
 それは驚くだろう。正月気分で電話をしてみたら身内が一人減っていたのだから。
「電話って言いましたけど……」
 と、いきなり青山が私の隣にきて会話に参加してきた。テレビを見ているものと思っていたのに、しっかり話しを聞いていたようだ。すぐ近くにいるのだから聞こえないほうがおかしいのだけれど。
「言いましたけど」と言ったところで何やら間が空いた。どうして早く続きを言わないのかと顔を見ると、視線がやや下を向いている。ついでに耳も赤くなっている。
「何故、先生は電話をかけてきたんです?」
 和泉さんは青山を不審げに見ながらも答える。
「お寿司をもらったから今夜は台所に立つ必要はないよ、との連絡のためよ」
 それがどうしたの? と和泉さんの瞳が問いかけているが、青山は「いいなあ、お寿司かあ」と呟いただけだった。
「美奈子ちゃん、お父さんやお母さんは?」
「二人一緒にご年始に行っています」
 さすがに「飲んだ暮れています」とは言えなかった。
 和泉さんは「あら、どうしましょう」と頬に手を当てた。
「また色々と話さなければならないんですか? 私が見たことは全部話したはずですけれど……」
「ええ、捜査員の方がもう少しお話を……と。密室なんて有り得ないとおっしゃっていたから美奈子ちゃんを疑っているのかもしれないわ。そうだとしたらきちんと無実だと照明する必要があるでしょう?」
 密室なんて有り得ない――青山もそう言っていた。その捜査員、青山と気が合うかもしれない。
 それにしても、私が疑われるとは……よほど、初動捜査が思うように進んでいないのだろう。清廉潔白な女子高生が見ず知らずの男を殺したりするものか。大体、私だったら刺し殺す、などという力技は採用しない。簡単で確実で服を汚す必要のない毒殺を選ぶだろう。
「本当に電話をしていたのか、ということを確認したいそうよ」
「ああ、それなら――」と私は傍らの青山を指し示す。「――こいつがその電話の相手ですよ。ちょうど良かった。中学のときからの友人で、青山といいます」
 何を思ったか青山は急にかしこまって会釈した。卒業式の時のように、やたらと肩に力が入っている。それに対して和泉さんは柔らかに微笑し、
「大塚和泉です。美奈子ちゃんのためにも、よろしくね」
 耳――青山の耳が真っ赤になっている。感情が身体のどこかに出る男だ。しばらく一緒にいて観察していれば、心理学者でなくとも彼の考えを読むことはたやすくなる。
 私はわずかに制服警官に向かって視線をずらした。制帽を深くかぶっているため、目の辺りに暗い影が落ちていて表情がわかりづらい。冬なので黒のコートを着ている。反射テープがなければ夜道で周囲に姿が溶け込んでしまうだろう。和泉さんの後ろに立っているから小さく見えるものと思っていたが、実際に相当背が低いようだ。その小柄な体躯が手伝って、警官はコウモリのように見えた。闇夜のコウモリ。月のない夜に人を襲うのに最適である……って私は何を考えているんだ。
 制服警官はじっと私達の様子を黙視している。重要な証言者を呼ぶのは本来警官の仕事のはずだろうが、どうして和泉さんにやらせているのだ。和泉さんは殺された大塚賢太郎氏の妻――つまり、間接的な被害者ではないのか。
 私が内心で文句を吐き続けていることを知らない和泉さんは、無理した笑みを浮かべたまま、
「面倒だとは思うけど、うちまで来てくれる?」
 と言った。
「青山も一緒に?」
「ええ、そのほうがいいと思うわ」
 青山は、「僕は別に構わないよ」とあっさり承知した。私にだって断る理由など何もない。どうせ二人で暇な時間をお茶を飲んで過ごしていたのだから。
「用意してきますから、ちょっと待っていてください」
 私は自室からコートを取ってきた。今の姿のままで外に出る気などない。
 居間に戻ってきて家の鍵を探す。適当な母親なので、鍵を置くところがいつも一定しているとは限らない。茶箪笥の中だったり、クリップボードに掛けてあったりと、実にバラエティーに富んでいる。共通していることは、必ず居間にあるということぐらいだ。
「ねえ、青山」
 探しながら問いかけた私に「何?」と返事が返ってきた。
「和泉さんって結構きれいな人でしょう?」
「そうだねえ、素敵な人だね」
 どこかうっとりとしたような、夢でも見ているような調子である。
「あのねぇ、相手は人妻よ」
「今は未亡人」
 いけしゃあしゃあと言う。青山英夫、記念すべき二十回目の恋のようだ。こいつも懲りないものだ。いくらなんでも自分より一回りも年上の人を好きになるなど、無謀ではないか。
「でも和泉さんは私達をどう思っただろうね」
「どうして?」
「こんな時間に二人きり、なんて誤解される要素として十分」
「それはいやだなあ。僕と美奈子は気の置けない親友同士なのに」
 そう、それ以上でもそれ以下でもない。お互いのことを良く知っている分、逆に恋愛感情など湧いてこない。周囲には私達の関係を面白いと言う人もいるくらいだ。
 ブルーのスタジアムジャンパーを拾い上げて着ていた青山は、それの右ポケットに手を当てて「あ」と短く言った。
「加代ちゃんから返された指輪……忘れていた」
 青いケースを出して見せる。やっと鍵を見つけた――テレビ台の中にあった――私は、
「そんなの捨てちゃいなさいよ。失恋の記念として取っておくこともないだろうし」
「うん……後で捨てる」
 左のポケットにしまい直す。どうやらまだ尾を引いているようで未練がましい。そういうところが女々しいと言うのだ。なんでもっと潔くなれないのかな。
「では、参りますか」
 すっかり待たせてしまった和泉さんと警官のところに戻ると、皆を促して外に出た。
 居間の電気はつけっぱなしである。電気がもったいないと思われるだろうけれど、これでいい。まだ眠る時刻でもないのに家を真っ暗にしていたら、それこそ盗みに入ってくださいと言っているようなもの。家が暗いということはつまり、留守ですよとお知らせしているのと同じことなのだ。それならば、家にいるフリをすればいい。居留守の逆パターンに当たる。母からこう教えられたときは目から鱗が落ちるかと思った。しかし……少々情けない話だが、我が家には取られるほどの金品は、ない。皆無に等しい。ああ、本当に情けない……
 私は外に出ると鍵を掛け、鍵ごと両手をポケットに突っ込んだ。
「寒いですね」
 両手をこすり合わせている青山はそう息を吐く。白くなって向こう側の景色を霞ませるがそれも一瞬のことで、すぐに闇色に戻る。
「明日は雪が降るそうですよ」
 それまで黙っていた警官が口を開いた。想像していたよりも遥かに豊かなバリトンの声で少しだけ驚いた。声だけは職業に相応しくない。
「雪……ですか」
 青山が空を仰ぐ。つられて私も上空を見上げる。星すら出ていない漆黒が広がっているだけだった。雪が降ってくる気配などない。本当に降るのだろうか。
「どうしてわざわざ和泉さんがうちに?」
 私がそう聞くと疲れたように、
「あんなところにいつまでもいると息が詰まってしまうもの。外の空気を吸いたくてね。それに……」
 その後を続けては言わなかった。その時はどうしてかわからなかったが、後から思い返してみると続きは大体推測できた。
 一生そばにいたいと思うほど愛しい人が殺された場所、血の匂いの残る家だから。生家は困惑と深いと嫌悪と苦渋に満ちた家となってしまった。たった一人の、正体も分からぬ人間のために。和泉さんの胸中はいまだ穏やかではないはずだ。
「賢ちゃんはね……」
「賢ちゃん?」
 誰に向かってでもなく始まった和泉さんの呟きに青山が聞き返した。
「大塚賢太郎さんのことに決まってるじゃない」
 私は小声で言って、青山を肘で突いた。ああ、そうか、と納得するとそれ以降何の口出しもしなくなった。それでいい、おしゃべりな男は好かれない。
「妻の私が言うのも何だけど、賢ちゃんは優秀だったの。会社の成績は一番で、若い内に幹部にもなれるだろうって言われていて。仕事だけじゃない。何でも出来たわ。妻(わたし)なんていなくてもいいかもしれないくらい、いろいろなことをこなせる人だった。
 だけれど、がちがちの堅物でもなかったわ。お酒はよく飲むけれど、どうしようもないくらい酔うことはなかった。良く気の付く人で、温厚で、優しくて……頼まれると断れないなんていうお人好しなところもあったわね」
 生前の大塚賢太郎さんは余程できた人物だったようだ。そんな人と結婚できて羨ましいと言えば羨ましい。もっとも、その賢太郎さんも、今や、物言わぬ骸となってしまっている。
「どうして、どうしてあの人が……誰からも恨みを買うことのないようなあの人が……」
 和泉さんはついに涙を押さえることができなくなる。手で覆った口元から嗚咽が漏れた。すかさず青山はハンカチを差し出した。しっかりとアイロンを当てたグリーンのハンカチを手に取ると、それで涙を拭う。
 どうして私が疑われたのか、納得できた。人望も厚く、優秀な人物だったからこそ、逆に容疑者が挙がらないのだ。そうすると第一発見者を疑うというのは定石だ。
「ありがとう」
 落ち着いてから、和泉さんは顔を上げた。わずかに濡れた瞳が私達を見る。
「別に返さなくてもいいですよ」
 その和泉さんを正面から見られないのか、青山は照れたように言ってそっぽを向いた。そして、向いた先に何かを見つけた。
「あ、何か来る」
「何?」
 私もそっちを向いた。東から二つの光球がこちらに向かってくる。強い光が目をくらませる。前を通り過ぎるだろうと道の脇によけると、その自動車は近付いてくるにつれて速度を落とし、ついには私達の前で止まった。
「和泉!」
 タクシーから降りてきたのは茶色のコートを着た本宮先生だった。
「おい、本当に賢太郎君が……」
 嘘であることを願っている顔だった。何も言わない娘の表情は曇っている。本宮先生の目が私と青山に移り――挨拶をしたが先生は返すことを忘れていた――警官に移った。
「まさか……」
「信じられないかもしれませんが――」
 豊かなバリトンで警官は和泉さんの代わりに答える。先生は立ち尽くしていた。簡単に警官が説明してやっと事実を受け入れたものの、まだまだ疑いは捨て切れていない。
「お客さん、忘れ物」
 運転手が、中身は寿司なのであろう包みを持って先生に声を掛けた。先生は鈍い動作でその包みを受け取り、
「ああ、ありがとう。釣りはいらないから」
 運転手は五千円札を受け取ると、西へ走り去って行った。
「……はは、あの賢太郎君が、ねぇ」
「本宮さん、詳しい話はお宅のほうで……」
「わかっとる。さあ、帰ろうか」
 警官が「荷物を持ちましょうか?」と申し出たのを先生はやんわりと断った。

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