念のためと玄関先に清めの塩を盛った。気休めに過ぎないであろうことはわかっていたが、儀式は誰のためにやるものではない。自分たちのためだ。安息と平穏を胸に宿すために。
壱哉は懐に入っている祖母のお守りを握りしめた。着物の端切れでつくった小さなお守りだ。祖母には蒼凪の血は一滴たりとも流れていない。だからその手づくりのお守りには何の力もないのだが、壱哉はどんな護符よりもこれを持ち歩いていた。
「準備はいい?」
十和子は抜き身の特殊警棒をぶら下げているが、壱哉の手は空だ。背後にある人ならざる気配が彼の全てであり、他に何も持つ気はなかった。心の中で、この家にいる誰かと自分の未来に手を貸してくれるようにとそれらに祈る。それが感情を持っているかどうか聞いたことがなかった。思いが伝わっているのかどうかはわからない。蒼凪の人間の中にはそれを愚行と言ってはばからない者までいる。それでも壱哉は語りかけずにはいられなかった。
足音を立てずに敷居を跨いだ。古い家特有の埃っぽさが鼻につき、ぞろりとした空気が身を包む。身体を駆け上がるとてつもない悪寒に足がすくむ。腑が痺れる。全身が警鐘を鳴らし続ける。
「壱哉?」
問う従姉の顔も青ざめている。自分はどんなひどい顔をしているのだろう。壱哉は屈しそうな足を必死に支えて前へ進む。渦巻くドス黒い怨念が見えそうだ。これほど濃厚な闇はついぞ見たことがない。
「僕の後ろにいて。防御のほうはからっきしなんでしょう?」
「壱哉のくせに生意気な口をきくな」
口では反発してみせるものの、十和子は大人しく従う。先程から壱哉の周りで弾ける水滴の量が増えてきている。それは壱哉の、いや、壱哉に従う見えないそれが主を守る防衛反応であり、増えているということはつまり瘡気が濃くなってきているということだ。身を守る術をもたないごく普通の人間だったらひとたまりもない。十和子ですら気を抜けばどうなるかわからない状態だ。
たった一歩が重い。鉛が入ったかのような靴を引きずり壱哉は歩を進める。この先にあるものを見極め、そしておそらくは助けるために。相手はこれまでとは桁違いだ。駆け出しからようやく認められ始めた若手の二人だけでどこまでやれようものか。壱哉はほんの少しの後悔を胸に抱えている。しかしそれはひよっこの自分ごときがどこまでやれるのか、力が及ぶのだろうかという不安からであり、選択に後悔はない。そんなところに迷いが生じては力にも迷いが現れてしまう。迷えばたちまちのうちに膨大な力の奔流に飲み込まれ、帰ってこられなくなる。一つ使い方を誤れば身を蝕んでいく呪われた力なのだ。
廊下の突き当たりに格子状の引き戸が見える。大股に進めばあっという間の短い距離が無闇に長い。左手には締め切られた雨戸が、右手には障子戸がわずか二間半並ぶ。小さな平屋だ。かつては仲の良い家族がこじんまりと住んでいたのだろうか。ごく当たり前の幸せな家族が去った家は今、禍々しく蝕まれている。
板張りの床がたわんだような気がした。最初は気分の悪さからくる目眩かと気にもしなかったが、すぐにも大きな波と化した。足を取られてがくりと膝をつく。見上げた天井もまたゆるい液体のように波打ち、しかしながら壁だけは確固としてそこにあった。そのために平衡感覚を狂わされた。それが隙となる。
髪の毛先が散り飛んだ。耳の先を掠った。着ていたコートの肩の飾り布がちぎれ飛び、袖には均一に細かなスリットが入った。
何かが壱哉の輪郭を綺麗に縁取って通り過ぎていった。
「振り返るな!」
とっさに背後の十和子を見やろうとして怒られる。続けて私は大丈夫だから、と緊張した声が続く。壱哉の陰になっていたため無事だったようだ。
「トラップ?」
「いや、何かいる……前、頼むよ」
壱哉は再びうなだれた。いまだ廊下はうねり、足元が不確かだ。目を細め、自分を守護する二つの力に意識を集中させる。また何かが壱哉の輪郭を走った。ご丁寧に今度は顔も撫ぜていく。まばらな擦り傷が頬に、首筋に現れる。多少なりとも動けば間違いなく肉をもっていかれる。警告なのか、それともじわじわと痛め付けるのが目的か。
見えない相手ほど厄介なものはない。目視に慣れきっている人間にとっては見えないだけで恐怖となるのだ。網膜に映っているのは狭い廊下だけ。何とも凡庸な風景全てが凶悪な牙を剥いているように見える。
背中に温もりがあった。十和子の左手が控え目に添えられている。それは衣服の上からとは思えないほどに温かく、心強い。
集中していた意識を放出させる。脳裏に天井から床までの長いスクレーパーを描き、目を開くと同時に壁に沿って走らせる。ガリガリと表面を削る音とともに紙片が舞った。薄い削り片が色とりどりの折紙と化し、散乱した。どこにでも売っている安いものから千代紙、手漉き和紙まで、幾枚も幾枚も剥がれて落ちる。はらりはらりと舞い、床を覆う。それだけならば幻想的な光景だっただろう。一瞬見とれかけた壱哉の額に汗が滲んだ。特筆すべきは、それら全てに朱紋が書き込まれていた点だ。血のように赤い墨で一撫でされた紋様からは言い知れぬ禍々しさが立ち上る。
舞う折紙の向こうに黒い影が踊っていた。壱哉は拡散させた意識を集束せんと手を広げる。判断は素早く。それが生き残る道だと幾多の者から教えられた。そしてそれが彼らを救ってきたことも知っている。しかし、今回ばかりは間に合わなかった。正面から体全体に強い力がかかってきた。抵抗する間もなく、手を広げた姿勢のまま、背後にいた十和子もろとも吹き飛ばされる。腕と腿と肩の三点に激痛が走った。
「十和姉、大丈夫?」
自分の下になってしまった従姉を気遣う。だが返事はなかった。彼女は目を見開き、壱哉を凝視していた。壱哉はほのかに笑う。従姉が無事であったことを心から喜んで。
しかし、身体だけは異様に重い。右肩と左下腕と左大腿に人形がぶら下がっている。己の背丈よりも長い黒髪を真っ直ぐに垂らし、白い面に感情が読めない笑みを張り付かせている。豪華な振袖に身を包んだ日本人形が一斉に身をよじった。同時に壱哉の喉から苦しげな呻きがこぼれた。少女人形が持つ包丁が、壱哉の肉を深々とえぐっている。
「この!」
十和子が壱哉の下から這い出そうともがくが思うようにいかない。壱哉は華奢で細身に見えるが、男であることには変わらない。ごめんと言いたくとも掠れた声しか出なかった。力が抜けた身体は重く、自分で動かそうにも自由がきかない。
「クラ……」
呼び掛けようとした十和子は口を閉ざし、なんとか自由な右手を振るった。まさに襲いかからんと飛来した別の一体が、合金製の特殊警棒に小さな頭を砕かれて失墜する。賢明な判断だ。術を発動させていれば、壱哉と十和子はまとめて串刺しになっていた。
目を見張る。近いようで遠い向こう、床を覆い尽くす折紙の上に日本人形が列を成していた。十和子の膝までしかない背丈、全く同じ顔、同じ和装、感情のない硝子の瞳でこちらを見据えている。
足元から冷たいものが這い上がってくる。無理だ、といつもは気丈な従姉がそう戦慄している様が手に取るようにわかった。壱哉は身をよじる。不思議なことに傷口から血が流れてこない。冷ややかな刃はまさに骨にまで達しようとしているのに、赤い生命は一滴たりとも流れようとしない。刹那の間、幾度となく意識を失いかけるが、人形たちは絶妙のタイミングで包丁に力を込める。
少しずつ、人形の群れが近づいてくる。
十和子の手が止まっていた。付き合いの長い壱哉には、彼女が咄嗟に幾通りかの作戦を頭に描いているのがわかった。そしていずれも有効ではないと判断して捨て去っているのも。十和子のポテンシャルは皆が思っているそれよりもはるかに低い。各個激はこそ力の集約により可能だが、元々そう高くない能力を広範囲対象で使用して効果を上げられるだろうか。それに何より、十和子の広範囲対象の術は発動までに手間がかかりすぎる。察知されて全身貫かれるのがオチだ。
そう逡巡する間にも人形は近づいてくるし、十和子にのしかかる壱哉の傷は深くなっていく。無数の瞳が二人に迫る。先程からの悪寒もあいまってか、腹の奥底から生存本能に直結するものがじわりと滲み出す。
掠れる視界の中で十和子の顔が青ざめていくのがわかった。二人は今、同じものを共有している。だからといってこのまま震えていても何も始まらない。萎縮する心臓を奮い立たせ、立ち向かわなければ。それにはまず、腕に喰らいつく人形が邪魔だ。
「少し我慢して」
十和子がそう壱哉に囁いた。上着のポケットから符を取り出す。腕を延ばし、いまだ壱哉に張り付く人形たちに押し付ける。十和子の動きにただならぬ予感を抱いたのか、他の人形たちが一斉に飛び掛かってきた。
「クライ!」
十和子の声に呼応して風が動いた。目に見えぬ力場が展開し、玄関と同じカマイタチが生じる。迫る人形たちの髪を裂き、服を裂き、白い顔面に幾筋もの線を描き風が吹き抜ける。それでも人形を砕くまでには至らない。見た目はボロボロであるが五体満足、何一つ欠損することなくうごめいている。
一陣の風が吹き抜けると同時に符が爆発した。小規模な爆発は壱哉を貫く人形の頭を吹き飛ばす。無残に黒髪を乱しながら小さな頭部が床を転がる。ひび割れた顔面が恨めしそうに壱哉と十和子を見ていた。衝撃で包丁が抜け、頭と力を失った人ならざる身体も地に落ちる。その音がまた、軽い。
壱哉が何かをつかむかのように宙へ手を延ばした。
人形たちは十和子の牽制などものともしていない。包丁を手に光のない瞳でこちらを見ている。無機物に感情は宿らない。人形はプログラミングされた命令を忠実に実行する機械だ。数は質に勝る。さすがの十和子も小さく悲鳴を上げた。見上げた天井に逆さになった人形が何体も張り付いていたのだ。重力に逆らっていたそれが一転、自然法則に準じた。手に鋭く光る鋼の刃を携えて。
そして契約は履行された。
十和子は状況を理解できず、目を丸くしていた。壱哉の身体を抱きながらそっと白い息を吐く。二人を包む空気が、興奮で火照った腕を冷やす。唐突に辺り一面が凍てついた。天井から床から壁から、そして向かい合っていた敵も。人形たちは氷に捕らえられて動きを止めた。
壱哉は穏やかに微笑む。視線の先にいた何かも微笑んだような気がした。またひとつそれに救われ、それに近付いていく。力なく半端に開いた手を閉じた。掌に宿る力を離したくない。
「壱哉、あんた」
十和子は言いかけた言葉を飲み込む。問い掛けている場合ではない。蒼白を超え土気色にまで変わった壱哉の顔が彼女の眼下にあった。十和子はコートのポケットからハンカチを取り出して引き裂く。血が吹き出した傷口にあてがい、きつく縛った。お世辞にもその手付きは丁寧とは言えず、実に粗雑だ。
「痛いってば、もうちょっと優しくしてよ」
抗議する声に力がない。
「うるさい」
一蹴し、問答無用で従姉はぐいぐいと布を絞る。真剣な顔は心配の現れである。そう思えば緊張がわずかにほどけた。たまらなく寒い中で互いの温度を感じ、心強さを得る。不思議なことに先程までのしかかっていた強烈な圧力も薄らいでいた。信頼、と一口で言うのは簡単だが、そこまでのものにするのは簡単なことではない。
「立てる?」
「まあまあ」
よたよたと腰を上げる壱哉を十和子が支える。
「ありが……」
「ありがとうは無しだからね」
素っ気ない言葉がなぜか嬉しい。心にほんのりと温かさが宿ると痛みも和らぐような気がした。掌を広げ、指までまっすぐのばしてみる。わずかに痺れを感じないでもないが大丈夫、まだやれる。動けばそれでいい。乾いた冷たい指先を振ると細かな水滴が散った。
一度引き揚げたほうがいいのではないのかとしつこく問う十和子を、壱哉は断固として拒否した。今はまだ外に対して害がなくとも近い将来、この家に住む何かは脅威になるからと諭す。手遅れになる前に、と一言付け加えることも忘れない。
「あんた独りの体なら文句言わないけどさ、宵が憑いてる意味わかってんの? あんたに何かあったら」
年寄りくさく説教調の十和子を制し、
「わかってるよ。だからって僕が引っ込んでいればいい道理はないよ。ここまで首突っ込んでおいてやっぱり見て見ぬ振りなんて冷酷なことできないって。そもそもここまで勝手にあがっておいて、あっちがおとなしく帰してくれるとも思えないしね。僕たちはお客様じゃないんだよ。それに、十和姉が思ってるほど蒼凪の家は弱くないよ」
「伯父貴が聞いたら泣くよ」
そう呆れる姉貴分に、
「婆ちゃんは喜ぶと思うよ」
意外と頑固な弟分が、青ざめた顔で殊勝に応えた。それは自分が普通の人間ではないという自負ではない。他の一族の人間がどうかは知らないが、少なくとも自分自身はごく弱い人間だと知っている。刃物や銃弾で簡単に傷つくし、やられたところが悪ければあっさりと逝ってしまう。人以上に病気にも弱い。その代わり、壱哉には祖母譲りの強い意志があった。
連綿と続く蒼凪の歴史の中核に必ずいた存在があり、今は壱哉の胸に宿っている。一体となり、絶えず主を守っている。感情などないはずのそれが、怒りと不安と心配を渾然一体として青く小刻みに震えているのがわかる。胸に手を当て、心の中で小さくごめんと呟いた。なぜか幼い少女のイメージが思い浮かぶ。彼女は苦く笑っていた。
廊下の突き当たりには引き戸があった。これも年季の入った建具だ。その上に薄氷が張っている。解ける様子もないそれに十和子が拳を当てると、あっさりと割れて崩れ落ちた。弾け飛んだ細かい氷が頬を叩いて水になる。
そろりと開けたその先はまた廊下だった。それも今までの倍の幅で何十メートルもある。お世辞にも綺麗とは言えない障子戸と雨戸がずらりと続く。今度は符は貼られていない。単調な光景が奥まで伸びているだけだ。
「ねえ、壱哉」
十和子はコートのポケットにかじかむ手を交互に突っ込んでいた。出した片手には特殊警棒。
「何、十和姉」
対して壱哉はその十和子の肩を借りている。無防備に近い姿だ。しかしコートの前を合わせていないところをみると、少なくとも十和子よりは寒さに強いらしい。
「この家ってこんなに広かったっけ」
「狭いと思う」
即答だった。十和子はぼんやりと前を見つめたまま、
「三十三間堂よりは長くないかな」
そんなことを言い出した。
「へえ、行ったことあるんだ」
「うん、大学の時に彼氏とね」
さらりと返された答えに内心驚いたものの、壱哉は平静を装い、
「その彼氏はどうなったの」
聞いてみた。
「旅行の一ヶ月後にわかれた」
やはり簡単に出た一言にまたも驚き、小さく息をつきながら思わず、
「それが正解だと思う」
本音が漏れた。
「それどういう意味よ」
「そこいらの男に十和姉はもったいないってことだよ」
「どこまで本心だか」
軽口を叩きつつ壱哉は十和子の肩から離れた。ふらりとよろめいたところに差し出された手を断る。大丈夫と言う代わりに彼女の肩を叩く。
入ってきたのと同じような戸が遥か彼方に見えた。幻影であるのは明白だが、細部に至るまで完璧なまでの再現率だった。幅と長さが常識の範囲を逸しているだけで、襖の質感から廊下の細かい傷まで真に迫るものがある。編み上げた幻の緻密さは術者の力量と想像力に因るという。先程のように下手に小細工せず、全力を注いだからこそ、これだけ隙の無い世界を作れたのだろう。
静寂が満ち、沈んでいた。より密度を増したプレッシャーに目眩すら覚え、壱哉と十和子は口をつぐんだ。この空間を作り出した張本人の懐に入ってしまった確信を捕らえ、緊張が増す。壱哉を庇うように前に立つ十和子は特殊警棒を正眼に構えた。些細な風の動きも逃さぬよう丹田に意識を集める。壱哉は壱哉で意識の腕で自分の内側を探り、内部にいる存在にそっと手を添える。もう少しだけ、と囁くとそれが頷いたような気がした。
何が潜んでいるのかわからない。何がやってくるのかわからない。
ぐにゃりと床板がたわんだ。壱哉はバランスを崩して膝をつくが、十和子はしっかりと足に力を込めて床を踏みしめていた。壱哉は波のようにうねる床に力を溜めた左掌を叩き付ける。だが、無機物の堅い手応えはない。おかしいと訝しむ前に手が、足が、膝が、緩やかに沈み始める。もちろん十和子も。咄嗟に頭の中の回路を切り替える。指向性のある攻撃へと向かいかけていた力を中へ引き戻し、二人を中心に広げる。床の温度が一気に奪われ、泥と化していた地面が氷の足場に変化した。
十和子が特殊警棒で空間を薙いだ。黒光りするそれが赤い影を捕らえる。堅いような柔らかいような手応えがして何かが落下した。見れば、それは深々と胸に五寸釘が突き立てられた藁人形だった。血のごとく赤く、釘を打ち付けられた胸からはどす黒い液体を垂れ流していた。地に伏し、しばし無様にじたばたとあがいていたが、顔に当たる部分がぐにゃりと歪み、一瞬皮肉げな嗤いを浮かべた。たちまちのうちに膨らみ、胴が弾けてただの藁と化す。
それで終わりではなかった。返す手で十和子はまた一つ、叩き落とす。止める間もなく翻ってまた一つ。
絶え間無く投げ付けられる藁人形は釘が刺さってる位置が違うものの、皆一様に紅に染まり、口だけの不気味な笑みを浮かべていた。そして動きが止まればねずみ花火のように弾け飛ぶ。
さっきの日本人形たちもこうして飛び掛かって来たが、今度は勝手が違う。あれは凶器を携え、明確な目的を持って動いていたが、藁人形どもは動かない。見えない手が無造作に投げ付けてきているだけだ。
「よっぽどお人形遊びが好きなようね!」
藁人形たちは応えない。所詮意思を持たない無機物は応えるということすら知らない。
「まったく、キリがない!」
「気をつけて、妙な気の流れを感じる」
「何を今更。すでに異常なのよ!」
手が離せない従姉はそう叫ぶ。足場を維持していなければ壱哉にも藁人形落としを強要していただろう。氷に冷えゆく指先に意識を集めながらもどうにも引っ掛かるものを感じる。原因もわからぬ不安に苛まれる。壱哉は心の片隅に這い寄る混沌の手から逃れようとひたすらに考える。猪突猛進に行動するのもひとつだが、人には頭がある。あるものは使わなければ損だ。
心落ち着かないのは真に迫る幻のせいなのか。幻影の只中にいるということは相手の手の内にいると同義である。感覚が鋭敏な壱哉がそれだけで違和感を覚えるのも当然だ。
長い間磨かれていないざらりとした木の感触にはっとする。指が氷じゃないものに触れていた。気が分散しすぎて氷の床が消失していた。再びずぶりと足が沈み、慌てて張り直そうとしてふと気付く。別所に意識が取られている間、足は床に沈んでいただろうか。眼前で仁王立ちの十和子はまったく揺らぐことなくそこにいた。安定した姿勢で自分の仕事に専念している。
そうか、と思い至った。これも幻影だ。人間の思い込みに手を加え、さも現実にあるかのように見せているだけだ。用意されたのはこの廊下の幻だけであり、藁人形も沈む床も具現化させているのは壱哉と十和子自身だ。今ここで壱哉が酒の雨が降ると思えば降ってくるだろうし、大地が裂けてマグマが噴き出すと思えば出現するだろう。藁人形は十和子が日本人形と同じシチュエーションを想像してしまったからだろうし、沈む床は足元危うい壱哉の不安が現れたものなのだろう。先程は不安を忘れていたため床が元に戻っていたのだ。
種がわかればしめたもの。壱哉は意識を全て一点に集約する。息を整え、十和子の背中を突き抜けた向こうを見つめる。
「十和姉、しゃがんで」
「でもそんなことしたら」
「いいから!」
手一杯の十和子は抗議の意を示すが、それを強い言葉で押さえ込む。渋々しゃがんだ従姉の頭上を藁人形が通り過ぎ、壱哉に襲いかかる。
「邪魔だよ」
その一言で人形が消失した。幅の広い廊下だけが残る。十和子が息を飲む音が聞こえた。
そこで、
「来る!」
奇妙に光が屈折していた。廊下の一部が盛り上がったかのように歪んで見えた。凹レンズを通して見ているような気にさえなった。
目を凝らせばうっすらと身体の線が浮かぶ。形はあっても色を持たない少女だ。日本人形を思わせる長い髪と幼い顔立ちで一糸纏わぬ姿であった。背景が透けて見えるにもかかわらず、どことなく淫媚さを感じる。これまでの人形たちと同様、おおよそ表情らしい表情はない。少女がゆらりと立ち上がった。そして低い姿勢で壱哉に向かって一直線に突進してきた。さながら獣のように。
壱哉は落ち着き払ったもので、構えることもせず徒手空拳で少女を待つ。したことと言えばわずかに右手を差し出したくらいだ。
相対、そして激突。
しかし、血が散ることもなければ、肉が爆ぜることもなかった。十和子は呆気にとられて二人を見る。
すれ違いざま、つい、と手を伸ばした壱哉は少女の手首を取り、細い顎の上の小さな唇に口付けた。
「つかまえた」
壁が割れた。襖が割れた。格子戸が割れた。床も、天井も、そして少女もすべてが薄片となって散った。幻が現へと還る。世界が崩壊する。
何ここ、と十和子が呟いた。広がった濃密な闇に目を凝らすと、六畳ほどの部屋と見てとれた。正面と左手の窓は雨戸ごと打ちつてあり、光の侵入は一切許されない。おおよそ人の棲む場所とは思えない、すっかり忘れられた部屋だった。
いやに空気が淀んでいる。悪い気が云々という話ではない。本当の意味で空気が悪い。埃っぽいのならまだしも、獣と汚物の強烈な臭いに息がむせる。壱哉と十和子は悪臭に耐え切れず鼻をつまむが、息をするため細く開いた口もまた常に犯されているかのようだった。視界が制限されて嗅覚が鋭敏になっている分、不快感もまた強い。胃の腑からこみあげるものをひたすらに堪える。
すっかり艶を失った畳は毛羽立ち、厚く埃を被っている。足を擦ればざらりと音がした。土足でなければ上がる気もおきなかっただろう。
二人とも「明かりを」とは言い出さず、むしろ部屋が暗いことに感謝していた。煌々と明かりがともっていたらどんなに凄惨な光景が広がっていたのだろうか。想像することすら本能が拒否している。
ほんのわずか目が慣れ、闇の中におぼろげに輪郭が浮かび上がる。部屋の中央に据えられたそれが徐々に明らかになっていく。見ていても苦痛でしかないが、二人はどうしても目を離せず呆然とそれを見ていた。粗末なパイプベッドはマットも布団も敷かれておらず、固い枠組みに薄い板が渡してあるだけだった。その上に人と思われる物が寝かされている。いや、正確には縛り付けられている。
男か女かもわからない。小柄な体躯から伸びる枯れ枝と成り果てた細い四肢にはワイヤーと鎖が絡み付き、ベッドの柱と強く結束している。腹の上にもまた太いワイヤーが横たわり、ベッドに巻き付いていた。下腹部から下には肌が見えないほどに紙が敷き詰められている。赤い墨で奇怪な紋様が記された紙は、たとえ知識がなくとも呪いの札であろうと見当がつく。首から上にも呪符は張り付いており、目を覆う暗い色の布の上にまで符が及んでいた。だらしなく開いた口にはつるりとした石のようなものが突っ込んである。それが壱哉たちが立つ入口から差し込む光を反射していた。しかし最も目を引くのはそれではない。
骨と皮だけの薄い胸は闇に浮かび上がるほどに白い。その上に魔法陣が描かれていた。円陣にカバラの文字と梵字が規則正しく並び、そこかしこにひらがなと漢字が踊る。西洋魔術と密教と日本古来のものを混ぜたような奇妙な陣だ。見たことがあるような気はするけれども、説明を求められれば答えられない。そんな得体の知れない様式だった。その陣の真中、つまりはみぞおちの辺りを太い太い針が貫いていた。
常軌を逸した光景に体がすくんでいる。現状を理解しようとするほど思考回路は速度を鈍らせ、体内のヒューズはいつでも飛べる状態にあった。壱哉は十和子が裾を掴んでいることにすら気が付かなかった。
「壱哉……壱哉ぁ、こんなのってないよ、こんなの、どうすればいいのよぉ」
頂点まで達していた緊張の糸が切れた。十和子はぺたりと地面に座り込み、うなだれる。すすり泣く声が小さく聞こえた。普段ならば気丈な従姉が初めて見せた弱音に驚くところだが、いかんせんそんな心の余裕はどこにもなかった。
生きているのか死んでいるのかもわからない。それでも把握しようと壱哉の背後にいたそれが、そろりと見えない腕を伸ばして探る。抵抗も忘れて横たわっているだけの躯から感じられるのは、生命の躍動や凶々しい力の奔流ではない。針の先端から伸びる細い細い力の糸だ。人の目に映らない糸は天井から真っ直ぐ垂れ下がり、小さく脈打っていた。骸のような体に何かを送っているのか、それとも吸い取っているのか。
探っていたそれが壱哉に顔を向けた。糸に手をかざしたまま、どうすればよいのか迷っている。おそらくこの糸は施した者まで続いているだろう。辿るか、術を返すか、いっそのこと切ってしまうか。壱哉は迷う。
呪詛返しを行うはたやすい。術式を解明し、そのまま力の方向を変えて押し戻してやればいいだけだ。たいした腕は求められないし、複雑な様式も必要ない。駆け出しの壱哉でも容易に行える。しかしながら相手の顔を知らない状況で行使するには抵抗があった。
明確な目的までは推察できないが、これだけの術式にはそれなりの邪悪な意図を感じる。そもそも壱哉たちの業界では、人を媒介とする行為は全て禁じられていた。禁を侵せば問答無用で制裁を下す。そんな掟が不文律となっている。
それにも関わらず壱哉はためらっている。どんなであろうと相手は生きている人間だ。罰というものは、目的を問い質し、納得して始めて加えるものだと思っている。見ず知らずの他人を突然傷つけるなど彼にはできない。
ならば糸を手繰っていくしかない。そう指示を出そうとしたところで、糸を探っていたそれが首を振った。糸がぷつりと途切れた。くたりと不可視の手に垂れ下がり、薄い光を残して消える。手掛かりは失われた。
ごぼりと水が溢れる音がした。はっとして見ると、今までぴくりとも動かなかった細い身体が激しく痙攣していた。口からごろりと玉が転がり落ち、泥のような液体を吐き続けている。針が突き刺さった胸には血が滲む。止まっていた時が動き出す。
「まだ生きてる!」
壱哉は強張っていた体を叱咤し、ベッドに取り付いた。ガリガリに痩せ衰えた体から無我夢中で針を抜き、ボロ布と化していた自分のマフラーをあてがった。くっきりと浮いた肋にぞっとしたが怯えている間は無い。顔を横に向けて口腔に指を突っ込み、泥を掻き出す。わずかな光に当てて見れば、極めて粘性の高いどす黒い血の塊だった。
「十和姉、手伝ってよ!」
枯れた声で叫びながらも手は口中をまさぐる。口腔はなぜか傷だらけで、糜爛した部分に触れるたびに横たわる身体が跳ねた。ワイヤーと鎖が手首に食い込み皮を裂く。溢れてくるむせ返るような血の臭いに脳髄が痺れた。
がぼ、と一際大きな血塊が吐き出ると、掠れた小さな吐息が聞こえてきた。乱雑に刈られた短い髪で判別つかない容姿だったが、それはまだ思春期にも満たない幼い少女のものだった。
壱哉は少女の目を覆う札を剥がし、布を剥ぎ取った。長い睫毛にこびりついた目やにを親指の腹でこそげとってやる。うっすらと瞼が持ち上がる。瞳どころか白目まで玉虫色に輝いていた。驚いて覗き込むとさっと黒と白に転じ、そのまま戻らなかった。暴れていた体は力を失い、ただ荒い息をつく。開ききった瞳孔の表面に壱哉の顔が張り付いていた。黒曜石のごとき目には、底の無い虚ろな深遠があるばかり。
頭からこびりついて離れないあのデスマスクがここにあった。壱哉は静かに小さな頭を抱きしめる。彼女が今まで見ていたものを、もう二度と見なくてもいいように。