麗らかな一日を予感させる気持ち良く晴れた朝だった。蒼凪壱哉は洗濯機を回しながら今日は何をしようかと考える。ほんのり漂うシャボンの優しい香りに目を細め、鏡に映った自分の姿を見て伸びた髪を切りにいこうかとも思う。もう少し温かくなるようだったら公園に行ってもいい。いっそのこと弁当を持って遠出するのもいいだろう。天気がいいだけでやりたいことが次から次へと浮かんでくる。春休みは宿題もないからのんびりできる。束縛されることもなくい。このありあまる悠々とした時間がたまらなく好きだった。
せっかくだから毛布も洗濯しようかと考えていたところに呼び鈴が割って入った。壱哉の城であるこの1DKに人が訪ねて来るなど稀なことだ。身近な三人の顔をを思い浮かべてドアホールを覗くと見事、その内のひとりがそわそわと立っていた。
「おはようございます」
扉を開くと、
「おはよ。早く開けなさいよ」
と、いつもの気丈な従姉の声が返ってきた。薄いパステルピンクのスプリングコートにブリーフケースを下げており、会社にでも行くような格好だった。十和子はケースを持ち上げ、
「顔見に来た。ついでにこれ、持ってきたから」
「コーヒーでいいかな」
「インスタントは嫌だからね」
踵の低いパンプスを脱いで十和子が上がってきた。脱いだコートの下もスーツとまではいかないが、フォーマルな隙の無い服装だった。この後本当に仕事なのかもしれない。わざわざ足をのばしてくれた彼女に感謝を述べる。十和子は素っ気無く「別に」と応えた。すれ違いざまに薫風が吹いてそれが微笑んだように感じた。
「あ、おねえちゃんだ。おねえちゃんおはようございます」
今から幼い少女が顔を覗かせた。おかっぱ頭がぺこりとお辞儀して実に嬉しそうに笑う。無垢な笑顔につられて十和子も顔を緩める。さらさらの黒髪を撫でると抱きついた。頭が十和子の胸までもない。細い手足は肉付きがいいとは言い難いが、それでもかつてを思えばまだマシなほうだ。
「これから僕とお姉ちゃんで大事な話があるから向こうで遊んでなさい」
はーいと元気な声が返ってくる。壱哉に渡された絵本を和室で広げ、一文字一文字声に出して読みあげていく。和室とダイニングをの間の引き戸を半分だけ閉め、壱哉はキッチンに立った。緑のヤカンを火にかける。
「歳の割に幼くない?」
少女を眺めて十和子が言う。壱哉は、「それは仕方ないよ」と言うほかなかった。過ぎたことを怨んでも何かが変わるわけでもない。
湯が沸くまで、互いの話をぽつぽつとする。十和子はいつものように仕事の愚痴を垂れるが、ほんの少しだけ口調が柔らかい。相槌を打ちながら聞く壱哉もまたいつもより穏やかだった。天気がいいだけで人は随分と変わる。
挽いた豆をドリッパーに盛り、高い位置から湯を注ぐ。豊かで深い、しかしすっきりとした香りが広がる。十和子が豆を問うと、壱哉行きつけの喫茶店の朝用オリジナルブレンドだった。コーヒーを淹れる姿があまりにも様になっていたのか、
「そこのマスターに弟子入りしてあんたも喫茶店やったら。学生やってるよりずっと似合うよ」
従姉はそんなことを言い出す。
「それって褒め言葉?」
「多分ね」
十和子はコーヒーを一口啜り、満ち足りた顔でうなずいた。壱哉は彼女が会社に家にと気苦労の絶えない日々を過ごしていることを知っている。その中において、唯一安らかになるのがコーヒーを飲んでいる時だと言っていたのも覚えている。そんな彼女の顔を眺めていて壱哉は、肌が荒れていることに気付いた。目の下もわずかに暗い影を落としている。いつもより化粧が濃いのはそのせいか。
「ちょっと目を閉じて」
触れるか触れないかという距離で手をかざす。ひんやりと冷たい手で額から目、目から頬、頬から顎とひと撫でする。
「何したの?」
「秘密」
穏やかに笑って壱哉はコーヒーのおかわりを注いだ。不思議そうにこちらを見る十和子の肌が少しだけ明るくなっていた。
一息ついて、十和子はブリーフケースから封筒を取り出し、
「調査結果」
そう一言だけ添えて壱哉の前に置いた。笑顔が引いて凍り付くのが自分でもわかる。
「ありがとう」
掠れた声でそれだけ言った。さすがに緊張が隠せない。茶色の事務用封筒は糊付けしてあり、封印の証として叔父の名がサインされていた。
ハサミで丁寧に封を開く。診断書、身元調査書、知能テスト成績表――頭のてっぺんから足指の先、そして脳の中まであますところなく、一個の人間を隅々まで調べた結果がそこにあった。随分な量だ。これを読むのかと思えばたいていの大人は眉をひそめる。調べた者や調べられた者はもっとうんざりしただろう。壱哉は時間をかけてそれら全てに目を通していった。その間十和子はじっと黙って待っていた。
どの書類も、女子とはあっても年齢、氏名欄は空白になっていた。ただ診断書だけは『十歳(推定)』となっていた。そう、あの娘に名前はない。
淡々と綴られた事務的な文章に胸をえぐられる。「不良」と「不明」の文字が多い。歳の割に幼い体に対しては「発育不良」と一言。「栄養状態は最悪。障害が認められないことが不幸中の幸い」と手書きの文字で綴ってあった。末尾に記された署名で、それが壱哉の主治医の所見であると気付いた。
蒼凪家は持てるコネクションを使い、全力で一人の幼い子供を徹底的に調べあげていた。それでも決して埋まらない空白がこれだけある。いくつか調査会社も動いたようだが、いずれの報告書にも「戸籍不明」の四文字が記されていた。少女はたしかにここにいるのに、彼女が社会的に存在していることを示す物は何もない。
あの家についての報告もあった。三年前に家主が死去。子供はおろか配偶者すらいなかったので土地家屋は遠縁の者が引き取っている。その後は荒れ果てるがままにされていた。登記簿に載っている名はどこにでもいそうな凡庸な名前だ。もちろんそこから少女に繋がる線は浮かび上がらなかった。
少女が帰るべき家はあそこではないことは自明の理だ。そして帰る場所もこの世界のどこにもない。
「どうするの」
書類の最後の一枚を置いた壱哉に十和子が問う。青ざめうつむいた弟分の前に新しいコーヒーを置きながら。壱哉はカップのふちを見つめていた。垂れた長めの前髪が視界を狭める。だけど少女がいた世界はもっと狭い。
少女はあの家にいたことを覚えていなかった。あの家に来る以前のことを聞くと貝のように口を閉ざした。過去は全て彼女の中では無いものとされていた。壱哉とともに過ごした数か月だけが真に人らしく生きた日々なのか。
表情を失っていた少女が壱哉に笑いかけてくれたあの日、胸に熱いものが込み上げた。あの思いは繰り返し蘇る。そのたびに少女を抱きしめて心臓の鼓動を聞いた。
少女の胸に刻まれた円陣が心に浮かぶ。多種の術式を織り交ぜて描かれた紋様だ。目にするだけで人の不安を煽る。凶々しい円陣は決して消えなかった。医療的にも魔術的にもあらゆる手段を講じてみたが、掠れることもなく少女の胸上にあり続けた。
今はこの円に呪術的なものは感じない、しかし未知なだけに将来災厄を招かないとも言い切れない。無機質な調査書の最後の一枚にそんな報告があった。
胸の上にあれがある限り少女は疎まれ続けるだろう。誰かに引き取られたとしても、孤児として施設に入ったとしても、あれはどうしても人目を引き、見る者を幸せにはしない。見た者はどんな反応を示すか、想像に難くない。
「あの子さ、本が好きなんだ」
ふと呟くように言った。
「文字を覚えるのも早くてね。年頃を考えたら当然なんだろうけど、このまま教えていたら四月の新学期には間に合うと思うんだ」
「壱哉、あんた」
目を丸くする従姉に壱哉は弱々しい微笑みを見せ、隣の部屋で上手に一人遊びする幼い少女に目を向ける。
「僕があの子の父親になるよ」
「爺さん絶対許さないよ。本当の本当に家に戻れなくなるわよ」
「勘当されたっていいよ。僕があの子を守る。幸せになる権利は誰にでもあるんだ」
書類を揃えて封筒に戻す。少女の目につかないように十和子に預かってもらおうかとも思ったが、やはり手元に置くことにした。今は幼い彼女もいずれ知らなければならない時がくる。
「あんたね」と言いかけて言葉を切った。「ううん、もう何も言わない。あんたあのクソジジイの孫だもんね。言い出したら頑固だもん。好きにしなさい」
呆れたように大袈裟な溜息をついてみせた十和子に今度は明るく笑いかける。
「ありがとう」
「まったく、せっかく一人暮ししてるのに、高校生で子持ちなんてモテないよ」
ぼやきながらも十和子は大きく伸びをして立ち上がり、壱哉に負けないほどの笑顔を見せた。
「そろそろ会社行くね。週末に出勤なんて死んでも嫌なんだけど、あの子とあんた見たら元気出たわ」
「そう?」
「そんなもんよ」
壱哉は玄関まで見送る。その後をちょこちょこと小柄な少女がついてくる。「おねえちゃん帰っちゃうの」なんて幼い声が名残惜しそうに言う。靴を履きながら十和子はその頭をひとなでした。
「忘れないでね。私はあんたたちの味方だから」
壱哉が返事するよりも早く、少女がわけもわからず頷いた。その顔には陰りもなく、ただ純粋に今の生活と明るい未来を信じている。こんな顔ができる子に大人の事情を持ち込むのは野暮だ。未来は自分たちだけの物ではない。
あの暗い部屋と悪意に満ちた所業が壱哉の脳裡をよぎる。そして、力任せに雨戸と窓を破壊したあの手の痛みも。身体の傷は全て癒えた。だけど癒えないものも残っている。
「ねえ、壱哉」
「何?」
答えた声は自分でも驚くほどさみしげだった。詭弁、同情、偽善。嫌な言葉が思考をめぐる。違う、と声高に叫びたい衝動にかられたことも何度もあった。
それは寂しさの裏返し。
愛玩するためだけの。
パチンと頭の隅で音がした。もう考えるのはやめよう。幾度も反芻させて出した結論だ。半ば予想のついていた報告書を読んでも揺らがなかったはずだ。自分に自信を持とう。
だから笑っていよう。
「この子、名前あるの?」
名前って大事だものね、と誰に言うでもなく言う。その言葉に呼応して風が揺れたように思えた。
「うん。ちゃんと決めたよ。ね」
不意に名を呼ばれ、少女は自分よりもずっと背の高い壱哉を見上げる。壱哉は屈み、小さな体を抱き上げた。
「ほら、お姉ちゃんにいってらっしゃいしなさい」
「うん。いってらっしゃい」
空はどこまでも晴れ渡り、風は穏やかに吹き抜ける。十和子がいなくなった後も、マンションからの景色を二人で眺めていた。一人の少年と一人の少女が二人で暮らす街の景色が広がる。
「お散歩行こうか」
元気のいい返事に口元も綻ぶ。
有限と無限の狭間に漂う言葉を名とする少女。自らの足で歩み出すのはまだ少し先の話。