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赤月寓話(1):目次/next


第一夜 零


 人を知らず、世界を知らず、ただ昏い水の中に浮き、それだけで満ち足りていた。
 ――あれは錯覚だったのだろうか。


 *


 その日は零にとって取り立てて特別な日ではなかった。
 父親の帰りが遅くなるのはそう珍しいことでもないし、独りで夕食を取ることにも慣れていた。
 食卓で独り、テレビを見ながら作り置きのカレーを食べる。少し辛めのカレーは自分ひとりだから食べられる物だ。父親は辛いよりも少し甘めを好んでいたので、二人での食事にはありえないメニューだった。
 テレビはあまり面白くもないバラエティを垂れ流している。音は騒がしいけれど興味を惹かれることもない。
 食事を終え、洗い物も済ますと零はそのまま食卓で勉強を始めた。今日はなんとなく賑やかなテレビの音を聞きながらしたい気分だった。
 父親愛用のドリッパーでコーヒーをいれる。同じ水、同じ豆、同じ道具を使っているのに何故か同じ味にならない。何が違うのかわからなくて、何度もコツを聞き出そうとした。そのたびに父は困ったような顔をしながらこう言うのだ。
「愛情っていうスパイス?」
 零はそんなものは信じない。いつも同じ味を出すために必要なのは技術なのだ。
 今夜も父親のいれたそれとは少し違う味のコーヒーを啜る。ブラックのほうが目が冴える。一杯目は身体が目覚めて、二杯目は脳が目覚める。少し胃がもたれてきたけれど、飲み続けていないといつの間にか眠ってしまう。
 夜はしっかり寝ているはずなのに、瞼が鉛のように重いのはなぜだろう。
 わかっている。
 独りだからだ。


 *


 夜がこわい。
 ひとりがこわい。
 布団の中で暗い天井を眺めていると、身も心も闇に染み込みそうになる。
 無理矢理寝ようと目を閉じる。
 ほどなくうたた寝で一時が過ぎるがそれまでだ。
 窓を叩く風の音で目が覚める。
 身体はいつでも動けるようになっていた。少しでも異常があれば察知できるようになっている。寝ているように見せ掛けてもどこかは常に起きている。
 何のため?
 逃げるため。
 何から逃げる?
 何かから。
 長い夜が過ぎるのをただじっと待つ。常夜灯をつけ、天井に映る部屋の影が勝手に動きやしないかと監視する。
 これで身体と心が休まるはずがない。寝不足は少しずつ心身を侵食する。
 布団の中で「お父さん」と呟いてみる。
 呟けば大きな手が伸びてくる。しかしそれは幼い頃の話だ。実際は声が闇に消えるだけの現実しかない。


 *


 漫然とした気持ちを抱えたまま、起き出して机の前に座る。
 数学の問題集を広げた。世界史や化学のような暗記科目よりも、絶えず手を動かす数学がいい。
 ただじっと座って考えていても余計なことばかり思い浮かぶ。そして思考の袋小路に陥るだけだ。
 そんなことで時間を浪費したくない。無駄を省くなら、考えてから動くのではなく、考えながら動くのだ。
 時計の針は間もなく明日を指す。
 積分の問題を二、三解いて時計を見た。帰宅を告げる声は聞こえてこなかった。結局今夜も父は帰ってこない。
 寝巻の合わせ目に手を当てる。その下、胸に広がる物を思い出すと言いようのない胸騒ぎを覚える。害はないと教えられたが、見るだけで不安を生む。
 忘れよう。
 忘れようと問題集のページを繰る。明日も学校はあるし、定期考査も近い。具体的な対象がない不安に怯えるよりも、今目の前のことに集中した方がいい。
 いつの間にか風はやんでいた。
 静かな夜だ。室内にあるのはページを繰る音と、鉛筆がノートを擦る音。

 暗いのは今だけ。明けない夜はない。

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