しばしば、どうして現場にこだわるのかと聞かれることがある。
すると彼女はこう答える。
顧客の顔が見えるところにいたいから。
それが彼女の本意なのかどうかは誰も知らない。
*
「蒼凪さん、出来ました」
「はい、ありがとう。次はこれよろしく」
その日の蒼凪十和子は資料の作成に追われていた。
締め切りは明日だ。明日はこの資料を携えて営業と共に顧客先を訪問することになっている。失敗できない仕事だと営業は言っていた。そんなものを自分が任せられた理由が今一つわからなかったが、今は没頭できる仕事があることに感謝している。
「藤林、市場調査の結果まとまってたっけ?」
「僕のパソコンに入ってます。そっちに送ります」
「ありがと」
データも出揃い、作業は大詰めだった。完成は見えているものの、いかんせん分量が多い。黄昏を過ぎ、定時を過ぎても終わらない。オフィスからは一人また一人と社員が帰り、気が付けば十和子とその後輩の藤林青年の二人きりとなっていた。
藤林はこの春に入社した新人で、十和子が教育係を任されていた。都会のいい大学を出ていると聞いた際は役に立たない坊ちゃんだろうと内心馬鹿にしていたが、実際共に働いてみれば頭は切れるし要領も悪くない。なかなか使える男だ。
二人はミーティング用のテーブルを占拠して向かい合って座り、ノートパソコンのキーボードを叩く。広いテーブルの上にはこれでもかと紙資料を広げていた。デザイナーに作らせた真っ白な会場模型が、テーブルの中央から二人を見守る。
「藤林」
「はい!」
やけにはっきりとした返事に十和子の口元が綻ぶ。次は何を命じられるのだろうと緊張を含んだ声だ。忠犬のようでかわいいではないか。
「少し休憩しよう」
*
外に食べに出る時間はなかった。買いに行く時間も惜しかった。そうなると夕食は必然的に買い置きのカップ麺となる。いつ何時何があるかわからないからと自主的にデスクに備蓄している物だ。男女が向かい合って食べるには色気のない代物だが、今は腹が膨れればそれでいい。
忙しい時期は毎食インスタントで肌が荒れたなぁなんてぼんやり考えながら、藤林と雑談を交わす。昨夜見たテレビのこととか、会社から二ブロック先に出来た小洒落たカレー屋のこととか。大した話題ではない。仕事で疲れた脳には仕事とは関係のない話が一番だ。
「蒼凪さん。本社異動断ったって本当ですか」
大盛カップ麺のスープを最後の一滴まですすって、藤林は何気なくその話をしだした。スープは残す派の十和子は先に食べ終えており、食後のデザートとばかりに栄養ドリンクの蓋を捩じっていたところだった。まさかの話題に面食らったが表面上は冷静を装い、何と答えようかと考える。
「こっちで仕事していたいしね」
数多ある理由の中で最も無難な答えを提示した。無意識に藤林青年から視線を逸らしていた。それに気付いたのかどうかはわからないが、藤林は口を尖らせてテーブルに身を乗り出してきた。納得いかないらしい。
「昇進のポスト用意されてたって聞きましたよ。係長飛び越えて本社人事課の課長代理の椅子だったって本当ですか?」
返答に窮する。それが却って真実味を増す。肯定と取られても仕方のない刹那の沈黙だった。
昇進すれば給料は上がる。収入が増えるのは魅力的なことであり、これを否定する理由はない。そして年齢も年齢であるから、そろそろ上の肩書きが欲しいというささやかな欲もあった。雇用の上で男女の差別はしないとされる時代だが、それはまだ法の上の話だ。現場ではまだ女を下に見る風潮がある。十和子は性別で舐められるのが不快だった。
入社から十年と少し。男と同じように仕事をしてきたつもりだった。その結果が三十路で独身という有様だが、それでもいいと割り切り仕事一筋に生きてきた。
だが、世間は未婚の平社員女性に厳しい目を向ける。結婚しているのが勝ち組で、未婚は負け組という見解はどこから生まれたのだろう。そんな固定観念に縛られた取引先の社長に遠回しに嫌味を言われることもあった。十和子は決して気の長い性格ではない。顔では笑っていても、腹の中では地獄の業火が燃え盛る。
だからこそ、負けないために肩書きが欲しかった。名刺の上の肩書きに長が付いていれば多少なりとも信頼も得られると思っている。
十和子のそんな負けず嫌いの性格を知っていれば、断るほうが不自然に見えても仕方ない。
「異動の話を持ってきたのが人事の課長って聞いたんですけど。直々の指名だったって本当ですか?」
ああ、と内心で溜息をつく。この新人はそんなことまで知っているのか。藤林青年はお姉様方に好かれやすい。年上の女性社員に呼び止められてはお菓子を貰うのが日常茶飯事で、十和子もその様子をよく目撃している。おそらくその辺りのレディースネットワークから聞いたのだろう。漏らしたのは一体どこのお局様だ。
「課長に告白されたって本当ですか?」
「え。そんな噂になってんの」
さすがにこれには驚いた。本社から遠く離れたこの支社で、妄想逞しい憶測が飛び交っても無視することに決めていた。万が一本当のことが囁かれたとしても、そんな公私混同としか思えない話、誰も信じないとも思っていた。平和な田舎町ではゴシップは娯楽だ。それの真偽はともかく、好奇をそそる話題があればそれでいいのだ。
しかし、まさか面と向かって真偽を確かめに来る人間がいるとは思わなかった。藤林青年はどこまで素直なのだ。
「有名ですよ。課長が蒼凪さんが好きで、傍に置きたいから呼んだって」
他人の口から聞くと安っぽいテレビドラマの粗筋にしか聞こえない。そんなドラマのヒロインなんて願い下げだというのに。うんざりとテーブルに肘をつく。
先月、本社近くに出張ついでに人事課から呼び出しがあった。これまでもたびたび本社異動を打診されていたので、またかと思いつつも顔を出したところ、まあ驚きの展開が待っていたのだ。
あの時の課長のいつになく真剣な眼差しと言葉は忘れたくても忘れられない。
『蒼凪君、公私共に僕を支えてくれないか』
社内でも敏腕で名高い人事課長で、それなりに顔も整っていて、女子社員にも人気のその人と、たった二人きりの会議室。そんな場面に放り込まれているにも関わらず、当事者の十和子は本当に安っぽい脚本だなと他人事のように思っていた。
その一方で、これまでのしつこい勧誘の数々が腑に落ちた。この人、私を好きだったのか。
もっとも、課長が十和子を個人的に気に入っていることは社内の誰もが知っていた。幾度も呼び出しては異動の話をし、断られても引き下がらずにまた呼び出す。通常ならば数回で諦めるところだ。気付かないはずがない。
つまり知らなかったのは本人ばかりというわけだ。十和子は仕事のことには嗅覚鋭いが、自分のこととなると極端に鈍い女だった。
「断ったわよ、全部」
放っておいても異動の話は立ち消えになる。十和子の周りはそういうシステムになっていた。それがわかっていたが、十和子はけじめとしてきちんと断った。それが自分のためでもあり、何より課長のためでもあったからだ。
藤林が黙ってしまった。十和子も何を言えばいいかわからなかった。適当な理由をへらへらとまくし立ててもよかったが、却って説得力が失われるような気がした。
栄養ドリンクに口をつける。甘ったるい液体が一気に喉を下りていく。速攻性はない。もう少し休めば効果が現れてくるはずだ。
それまでこの沈黙に耐えられるのだろうか。
節電のため、二人の周囲を除いて電気は消されている。薄暗く、そして静かだ。オフィスがあるのは県庁所在地の中心地。田舎とは言え仮にも地方都市である。車の音とか人の声とか、もう少し喧噪で賑やかではなかったか。今夜に限っては妙に静かだった。
オフィスは沈黙している。広いフロアには仕切りがないため見通しがいい。そこにずらりと机が並び、全てにパソコンが置いてある。電源が消えた暗い画面が十和子たちを見つめている。日中であればひっきりなしに電話が鳴り、同僚たちの話し声は途切れず、手は軽快にキーボードを叩き、プリンタは紙切れのエラー音を上げる。そんな労働の音が一切なくなると、オフィスは虚ろに見えた。
静寂に耐え切れず、ゴミを捨てようと立ち上がった十和子の手にひやりとした手が重なった。
「僕では駄目ですか」
藤林の手だった。この春から一緒に働いてきたにも関わらず、触れたのは初めてだった。
十和子のそれよりも大きく、骨ばっている。当たり前だが男の手だった。それが今、十和子の手を強く握っている。
後輩の顔は見たことがないくらい真剣だった。
「蒼凪さんが好きです。ここに来た時から、ずっと」
震える声が、冗談ではないと告げていた。
第一印象は柴犬だった。屈託のない笑顔で人懐っこく、誰からもかわいがられる。それでいて忠誠心は高く、何事に対しても一生懸命で、理想の後輩っていうのはこいつのことを言うのだろうと思ったことさえある。女子社員に告白されたという噂も幾つか聞いた。
対して十和子は女というにはがさつだった。何事も大雑把でロクに気遣いもできず、実家暮らしの常として家事もできない。仕事だけは人並みかそれ以上だが、一緒に暮らすとなると誰もが眉をひそめるだろう。
そんな自分のどこがいいのか理解できない。やはり十和子は自分に向けられる矢印に関してはどこまでも鈍い。
藤林への返事は既に決まっていた。けれど即答はしなかった。驚いた顔をして見せ、うつむいて考える振りをした。たっぷり時間をかけて顔を上げ、少し寂しげな表情を作る。
「気持ちは嬉しいよ。だけどあんただっていつかは本社に戻るんでしょ? それでは駄目なの」
本当の理由を伝えるつもりはなかった。今の時代でそんな理由は遅れていると言われかねないし、藤林のような善良な市民には決して理解できないだろう。
蒼凪という名はとても重い。
この地を護り日本を護る古い一族だ。その家に力を持って生まれた。それがどれだけの意味を持っているのか、藤林に説明してもわかるまい。
十和子はこの地にいなければならない。蒼凪の力を得ている者は他所に行くことを許されない。他所に生活拠点を移そうとすれば潰されるし、強引に引き戻される。過去に逃げ出そうとして叶わなかったという話をいくつも聞いた。幼い頃から長老たちにそんなことばかり聞かされ、十和子は蒼凪を捨てることは不可能だと知っていた。
事情を知らない人は、十和子は家と土地に縛りつけられていると言うだろう。しかしこの地に縛りつけられている一方で、望んでここにいることもまた事実であった。
「ごめん」と小さいけれどはっきりとした声で藤林に告げる。雨に濡れた子犬のようにうなだれる後輩の姿にちくりと胸が痛んだ。
「藤林のことは好きだと思う。けれどそれは恋愛感情じゃないの」
藤林の手の下からそっと自分の手を抜く。後輩は離れていく手を追わず、温もりを失った指先を見つめていた。
「あんたさ、私の従弟に似てるのよ。歳もちょうど同じくらいかな」
十和子には十歳下の従弟がいた。本家に生まれ、将来は当主となることが決められた青年だ。
「そいつ、体が弱くて不器用なのよね。気も弱いし。でも優しくていつも一生懸命でさ」
その従弟はとても綺麗な目をしていた。純粋で、真っ直ぐで、恐れを知らない目だ。幾多の修羅場を超えてきたにも関わらず、その目の清らかさだけは変わっていない。それがどことなく藤林に似ていると思った。
「その従弟が好きなんですか?」
藤林が大真面目な顔でそんなことを言う。思わず「馬鹿」と頭を小突いた。生まれた時から見てきたから最早弟のような存在だ。恋心なんて生まれるはずもない。
「見届けてあげたいのよ、最後まで」
蒼凪の跡継ぎという従弟の運命は覆すことはできない。本人もそれを承知でこの地から出て行くような真似はしない。今はまだ市井の人間と同じような日常を送っているが、蒼凪の責務は少しずつ彼の“普通の日々”を侵食している。いずれはその身その心全てを蒼凪のお役目に捧げねばならない。そして彼は“普通の日々”にいられなくなり、“日常”から外れてしまう。日常を忘れた従弟は化け物になってしまうかもしれない。そんな恐れが心の片隅にあった。
その時がいつになるかわからない。けれど十和子は最後まで“普通の日々”を奪われゆく従弟の日常の一部でいたかった。
だからこの地を離れるわけにはいかない。
「さて、休憩は終わり。日付変わる前には終わらせるわよ」
立ち上がって伸びをした十和子を、どこか納得いかないような目で藤林が見つめていた。
きちんと説明すればわかってくれるかもしれない。けれどそれには時間がかかるし、今はその時間も惜しい。十和子は蒼凪の人間であるが、ごく普通の会社員でもある。被雇用者として会社への義務がある。全ては目の前の仕事を片付けてからだ。
まだ動かない藤林の頭を再び小突く。失恋したての青年には悪いが、今は動かねばならない。
「がんばろ」
この仕事が終わったらケーキでも買って従弟の顔を見に行こう。心の中でそう呟き、渋々立ち上がった後輩の背中を叩いて気合を入れてやった。