昼下がりの昇降口。昼休みをとうに過ぎ、授業中の校舎内は実に静かだ。下駄箱が並ぶそこにも人影はなく、ひっそりとしているはずだった。
午後の授業がない万里は見回りという名目で校内をぶらついていた。うるさい同僚から逃げたというのが本当のところだが、口では見回りと言って出てきた。教師だって人間であり社会人だ。苦手な相手の一人や二人は当たり前にいる。避けられるのならば避けるところだけれど、万里は実に運が悪く、この春からそんな人間と同じ学年を受け持つことになった。
同僚は選べないものである。おかげで適当な理由をつけて職員室を抜け出すのが日課になっていた。そんなことをしていれば仕事が進まない日もあるけれど、日中あいつの顔を見ながらやるよりは残業したほうがマシだった。
下駄箱の扉を閉じる音に振り返り、ひょいと二年生の並びを覗くとそこに背の高い学生がいた。一年生担任の万里は二年生の顔はろくに知らないが、彼のことはよく知っていた。
「おい、壱哉」
声をかけたその背中が、引きつったように強張った。外履きが手から落ちる。
「また早退か?」
咎めたわけではないが、棘のある口調になってしまった。やってしまったと思いながらも、威厳を崩さないように相対する。
「あ、はい、ちょっと零が熱出したって連絡あって」
猫背の壱哉はそそくさと外履きを拾うと、ぺこりと一つ頭を下げた。背を丸めると卑屈に見えるからやめろと言ったのに治っていないらしい。
その姿に万里は盛大に溜息をつく。教師としても叔父としても、壱哉の情けない有様は見ていられない。悪いことはしていないのだから堂々としていればいいのに。
「担任から聞いたぞ。出席日数足りないんだってな」
甥っ子は目を見開いた後、すまなそうに後頭部をかいた。
「あ、うん、今年はちょっと危ないみたい」
今朝方、壱哉の担任からの話を思い出す。成績はごく普通、素行は悪くない。けれど欠席や早退が多いがために進級が危ぶまれるという状況だった。それで壱哉の親を呼んでいいかどうかという相談だった。
昨年は教師たちの温情で切り抜けられたがそれが二年目も続くとは思えない。特に今年の気がかりは教頭が変わったことだ。新しい教頭は頭が固い。物事をなあなあでは済ませない真面目な性格だった。昨年までの温厚で人情家な教頭ならばまだしも、すこぶる頭が固い今の教頭に壱哉の事情が理解してもらえるだろうか。
元々身体が弱いため、小学校の頃から欠席早退は繰り返していた。しかし、高校に入ってからは別の理由で学校を休むことが増えた。そう、彼の一人娘だ。
「お前な、零ちゃんが大事なのはわかるが、たまには他の人にも頼れ。義姉さんとかいるだろ」
義姉とは万里の二番目の兄の嫁だ。壱哉にとっては叔母にあたる。確かこの近くに住んでいたはずだ。あっちは子育てのプロフェッショナルだぞ、と言いかけて三十路目前未婚キャリアウーマンの姪を思い出し、口をつぐんだ。あの姪にはよく酒を付き合わされ、愚痴を聞かされている。
「それはわかっているんだけど」
壱哉は言い淀む。
「僕がいないと眠らないんだよ、あの子」
立派な親馬鹿だと思う。子供のいない万里には、今の壱哉はそう見える。やや気弱だが昔からしっかりした子供で、将来は安泰だと見ていたものだが、まさか養子を溺愛するような男になるとは想像もしていなかった。
本家から壱哉の娘の話は聞いていた。引き取り手のいない孤児、そして恐ろしい呪いの犠牲者。それを目の当たりにしたからこそ、壱哉の思い入れも強いのだろう。引き取ると言い出し、家を出てから一年半。いつ音を上げるかと見ていたが、なかなかどうして父親業を続けている。
俺にはわからん、と内心でぼやきつつも、
「テストだけは落とすなよ」
「ありがとう」
さっさと行けと手を払う。壱哉は一つ会釈して、そそくさと帰っていった。眺めていると、校門から出ていくその背に幼い頃の壱哉の姿が重なる。十年前はあんなに小さかったのに。
「めんどくせぇやっちゃ」
感傷に浸るよりもその呟きの方が先だった。ポケットから煙草を出してくわえ、火を点けようと思った途端、
「あら、蒼凪先生も似たようなものですよ」
女性の指が煙草をかっさらい、握りつぶした。
「校内は禁煙です」
隣のクラス担任の翠雅芙蓉。万里が逃げてきた相手だった。歳の頃は万里よりも十ほど下だが、すこぶる優秀な教師で何においても勝てる気がしない。教師としては落第生に近い万里はどうにも苦手としていた。
苦虫を噛み潰したような表情で見返すも、芙蓉は端正な顔で澄ましている。奪い取った煙草を丁寧にちり紙に包んでからゴミ箱に捨てた。その細やかな配慮がまた大雑把な万里と合わない理由の一つだ。
「蒼凪の坊ちゃんも大変ですね」
万里が見ていた方向に目を向けて言うが、既に壱哉の姿は見えなくなっていた。自分も大して身体が強くないくせに、走って行ったらしい。甥っ子が娘を心配するのと同じくらい、甥っ子を心配している人間がいるというのに。いや、喘息は既に治ったんだっけか。
煙草を奪われ、手持ち無沙汰になった。浮いた手でここ数日剃り忘れていた顎を撫でる。口元も寂しい。そんな万里に芙蓉がレモンキャンディを投げて寄越した。職員室のお菓子箱に入っているやつだ。そのいかにも喫煙者心理が分かっているかのような行動も気に食わない。礼も言わずに袋を破り、小さな飴を口に放り込んだ。
「いつから見てたんですか」
「初めから」
芙蓉はさらりと言ってのける。これでは逃げてきた意味がないと万里は小さく舌打ちした。どこまでも抜け目のない女。
「お前のところのトップには言うなよ」
「さて、どうでしょうね」
トップとは校長のことではない。勿論教育委員会でもない。この地から遥か西にいる翠雅の当主のことだ。この女は護国を担う四家が一、翠雅一族の人間。そしてまた、万里も日本を守る蒼凪家の人間だった。
四家は日本を守ることを第一とし、各家の縄張り争いを良しとしない。そんなものは時間の無駄であり、誰の益にもならず不毛だからだ。そのためそれぞれの家の人間はよほどのことがない限り他所の家の支配地域に入ることはない。余計な諍いを引き起こさないためだ。なのに翠雅の芙蓉はこの蒼凪の地にいる。特に何をするでもなく、当たり前のように高校教師として働いている。それがどうにも万里には解せない。人の土地で働くなどあまりにも無意味だからだ。念のためと蒼凪の当主にも報告したが、害がなければ放置して良しとの指示だけだった。
もしかしたら翠雅のスパイなのではと疑ってはいるが、そもそも蒼凪がスパイされるようなことに心当たりがない。翠雅はいけ好かない一族であるものの、蒼凪といがみ合っているという話も聞いたことない。一般常識では他所の家をこそこそ覗くなど悪趣味極まりないとなるものだけれど、歴史ある旧家同士ともなれば必要なことと容認されているのだろうか。
末端に過ぎない万里には、四家の上の思惑など想像もつかない。
あえて蒼凪の弱点を挙げるのならば壱哉であろう。
本家に寄りつこうとしない蒼凪の継嗣。術の扱いや潜在能力は当代随一であれど、心身の脆弱さがそれについていかない。付け狙われる隙があるとすれば彼に違いない。
澄ました芙蓉の様子を窺ってみるが、生徒の間では鉄面皮と称されるその顔には何の表情も浮かんでいない。何を考えているかわからないのもまた万里は苦手としていた。
「しかし先生は何故そこまで壱哉君に肩入れするんです?」
その問いは教師としてのものか、翠雅としてのものか。
「そりゃかわいい甥っ子ですから」
それ以上でもそれ以下でもない。壱哉は一番上の兄の一人息子だ。例え蒼凪の継嗣でなかったとしても、万里は今と変わらない態度で壱哉と接しているだろう。自分ではそう思っている。
「同情ですか?」
その筈なのに、芙蓉のこの一言が心臓に突き刺さるのは何故だろう。
「聞きましたよ。十年前、県外転勤を申し入れたそうですね。なのに握りつぶされたって。蒼凪のご老人、俗世は無関係とばかりの顔をしているのに、しっかり権力をお持ちのようで」
「何が言いたい」
敬語を忘れて睨みつける。その眼は教師の物ではなく、猛禽類のそれだ。決して身内には見せない、もう一つの仕事用の顔。
生徒用の昇降口は吹き抜けになっていた。高い天窓から午後の陽光が二人に降り注ぐ。背後に伸びた万里の影が、もぞりと身じろぎしたように見えた。影が質量を持って形を成し、黒いベールを引きずるように持ち上がる。まるで水面から上がってくるかのように。
そこに小さな紙切れが突き立った。短冊大の紙には近づかなければ読めないほどに細かい筆文字が書きつけてある。まるで刃のように真っ直ぐに突き立ち、持ち上がった影は真っ平らなただの床に戻った。最後に未練がましく波紋を描いて。
また一つ万里は舌打ちする。使役を封じられては威嚇することもままならない。
十年前の異動願。それは諦めと共に忘れようとしていた記憶だ。今更蒸し返して何になる。身内にも相談しなかった。知っているのは万里本人と、今ではもう退職した当時の校長だけ。その元校長も一昨年に脳梗塞で亡くなったと聞いた。記録には残れど、記憶している者はもはや残っていないはずだ。他者から見れば「そんなこともあったのか」という茶飲み話程度の話題だろうが、万里にとってはこの上なく不愉快な話だった。
「何が言いたい」
再び問う。低く声音を抑えても、冷え切った声は吹き抜けの天井に大きく響いたように聞こえた。
「所詮あなたも籠の中の鳥。蒼凪の掌からは逃れられないということですよ」
「部外者に何がわかる」
抑えつけられた影が抵抗を見せる。床に波紋が揺らぎ、今一度とでも言いたげに頭をもたげる。突き立った紙切れは、天井を向いた端から徐々に裂けていく。
「わかりますよ。私だって翠雅の人間です」
静寂に落ちた一言は、どこまでも静かな声だった。
芙蓉の目がどことなく遠くを眺めているように見えた。わずかに色素の薄い瞳は何を映しているのだろう。過去か未来か現在か。それともここではない別の場所か。
万里は理解した。この女が遥か西の翠雅の地ではなく、この蒼凪の地で教鞭を取る理由を。
この女もまた、万里と同じだということを。
「お前」
と、開きかけた口をチャイムが遮った。授業終了の合図だ。にわかに教室の方が賑やかになり、次々と生徒達が姿を見せる。万里も芙蓉もそこで現実に引き戻され、教師の顔に戻る。
「次、授業ありますので」
芙蓉は地面に突き立てた紙を素早く引き抜き、手の中で丸めた。一つ会釈して去っていく。その後ろ姿はいつもと変わらない女教師の物だった。おまけに、
「煙草、吸うなら外に行ってください」
と、去り際に残していった。どうしても一言多く言わないと気が済まない性分なのか。万里は口の中で飴玉を転がしながら苦笑する。そのくらい分かってると言ってやりたかったが、芙蓉は歩くのが早く、もう声は届きそうになかった。
「蒼凪せんせー」
その代わり、脳天気に呼ぶ生徒の声が聞こえてきた。あれは受け持ちのクラスの女生徒だったはずだ。その声で教師としての蒼凪万里を自覚する。
蒼凪としての自分か、教師としての自分か。三十路も半ばを過ぎたものの、どちらが己にとっての現実なのか未だによくわからない。明瞭に区別して生きているようでも互いの境界は曖昧で、時折片方の手がもう片方に伸びてくる。じわりと侵食しては引いていく波のようだ。
どこにいても一族の気配がある。常に監視の目がある。後ろをついてくる足がある。引き留める手がある。
それは恐らくあの女も同じだろう。
共に働くようになって半年あまり。芙蓉という女の真意が量れず、一時たりとも警戒を緩めることはなかった。なかなか尻尾を出さない女狐にここしばらくは苛立ちを感じていたが、今この時、少しだけ肩が軽くなったような気がした。
芙蓉の見極めは時間をかけてやればいい。学校にいる限り下手に手は出してこないはずだ。
「百瀬」
『見てるぜ』
髪の中に仕込んだ骨伝導式の通信器が応えた。
「引き続き頼む」
『あいよ』
吹き抜けの天井高く、屋根に近い梁に取り付けられた小さなレンズが応えるかのように煌めいた。