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赤月寓話(2):back/目次/next


第二夜 百瀬


 伸ばした指先が熱い。下に向けていた左掌を上に返すと、そこに熱が集まる。熱した鉄塊を握っているかのようだが、不思議と皮膚は焼けない。見えない渦を巻く熱に息を吹き掛けた。
 ごそりと小さな気配が動く。熱かった渦が確かな形を持つ。握れば潰してしまいそうな柔らかな手応え。手肌をくすぐる細かい毛の感触。
 赤い体毛に白い尾の鼠が百瀬を見つめている。小さな前足を持ち上げ、後ろ脚だけで立っている。
 名は舞篝(まいかがり)。百瀬の人ならぬ相棒だ。
 直立する舞篝の腹を撫でてやる。火鼠は目を細めてされるがままになっていた。触れる舞篝の肌に温もりはない。百瀬の裡から出でし小鼠には血潮もなければ、それが通う肉体もない。触れられるほどに物質化していること自体が奇跡に等しい。
 壱哉の精霊と接触してからだ。蒼凪当主のみが駆る三精霊、天藍、海藍、宵藍を受け入れて術を行使してから百瀬の中の何かが変わった。それまで具現化することも叶わなかった舞篝が実体を得た。そう、契約してより二十年、ただの一度も姿を現したことがなかった精霊なのだ。
 原因をつくった従弟はそれをパスが通ったからだと言った。壱哉の三精霊と通じることで、百瀬の中に地脈からの力を吸い上げる経路ができたのだという。本来ならば精霊を具現化するほどの力を持たない百瀬がそれができるのは、地脈の力を拝借しているからなのだそうだ。
 百瀬は掌上の小動物をぼんやりと見る。舞篝は主からの命を待って直立不動でいる。
「形なんていらなかったんだよ」
 それはただの呟きだ。言ったところで、百瀬に命令の意思がなければ舞篝はそこに在り続ける。
 百瀬にとって舞篝は戦術情報兵器でしかなかった。戦いを有利に進めるために情報を集めるデバイス。愛用のコンピュータ群と何ら変わることがなく、むしろ同化しているものだった。
 故障しない便利な道具程度の認識しかなかった。正確に動いて情報を収集してくれればそれでいい。それがどんな形をしているのかなんて興味なかった。
 それがいざ形を持ってみればこんなに愛らしい。ただの道具がかわいい姿を持つ必要があるのか。鼠の黒くつぶらな瞳を見つめて百瀬は口の中で唸る。
「何で鼠なわけ?」
 問い掛けたところで舞篝が返事をするはずもない。よく訓練された兵士のように、直立不動のまま命令を待つ。
 ――零ちゃんが見たら喜びそうだよな。
 かわいいもの好きの従弟の娘を思い出す。
 彼女だったらこう言うのかもしれない。
「それが百瀬さんの心の形なんですよ」
 俺の心は鼠のように小せぇということか。
 自虐に走ればどうとでも言える。だけどそれが真でないことは誰より自分が一番よくわかっている。
 鼠が載ったままの掌を返して下に向け、握る。指の隙間から赤い煙が立ち上った。
「行け」
 煙は指向性を持っていた。並ぶサーバのうちの手近な一つに絡みつき、ドライブベイの隙間から潜り込む。
 ハンドヘルドPCのモニタに”デバイスの状況”が表示された。いわく、「未確認サーバにアクセス中」 メッセージの下にアクセス深度を示すメーターが現れ、少しずつバーが伸びていく。
 5%、12%、18%……
 そこまで確認して百瀬はサーバの前から離れた。入口の扉から死角になるデスクの影に隠れる。ジャケットの前を合わせ、身を縮める。サーバルームの空調は人間用ではないため、室内はとても寒い。
 サーバに入り込むところまではできた。あとは舞篝が欲しいものを探り当ててくれるのを待つばかりだ。
 舞篝は機械じゃない。百瀬自身と意思を同じくする使役精霊だから面倒なプログラミングがいらない。使役者である百瀬が「あれがしたい」と思うだけで舞篝は目的通りに動く。
 本当に便利な道具だ。
 そう言えば壱哉は激怒するだろう。精霊は道具ではない、パートナーだと。
 壱哉は優しすぎる。自分の手が届くものは全て対等に扱おうというのだ。物事とは優劣をつけて処理するべきものなのに。
 だけど優し過ぎるのは幸せなことだとも思う。それを忘れてしまった人たちは皆、諦めきっているからだ。壱哉は諦めていないから優しさという名の強さを持っている。
 人を諦めない。
 決して見捨てない。
 壱哉が諦めなかった結果が壱哉の娘であり、舞篝の実体化だ。
 ――俺は何かを残せているのだろうか。
 サーバに侵入した舞篝をモニタリングしながら自問する。
 好き勝手に生きてきた代償はいつか払わなければならないのだろう。享楽だけを追究し、気に食わないものは切り捨ててきた。無くしたものは数知れないが、それを惜しいと思ったこともない。
 惜しいと思う物などあるのだろうか。
 PCの画面に「セキュリティシステム全館解除」と文字が出る。データサルベージの後に組み込んでおいた命令だ。これで数分は警備の目をごまかせる。
 手を差し出すとサーバから赤い煙が漏れ出てきた。百瀬の掌上に集まり、再び鼠の形をとる。
 時にして数秒、しかし百瀬にとっては無駄な長時間、赤い小鼠を見つめていた。そして鼠の背を撫でてみた。
「帰るぞ」
 舞篝はつぶらな黒目で主を見ると、再び煙と化し、今度は百瀬のPCに入り込んだ。画面には「データロード中」の文字。
 百瀬は薄暗いサーバ室からそっと抜け出る。廊下には誰もいない。そのまま彼は帰っていく。舞篝とともに、自分の城へ。

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