1.
今日も一日がつつがなく終わった。
給料日直後の週末ということもあり、友人たちと共に歓楽街に飲みに出た。一通り騒いで、三軒目の店を出た頃にはとうに日付は変わっていた。一般的な週末なんてこんなものだろう。そんなことを思っていたら、いつの間にか解散していた。
酒臭い息を吐きながら家に向かう。少しだけ頭が痛い。駅から出ると、どこからかパトカーの音が聞こえた。ガンガンと頭の中で鳴り響く。
いつも通る道は夜の静寂に沈む。新興の住宅街はコンクリートで塗り込められ、整然と整理されていた。明かりが灯っているのに、家々は冷たく他者への無関心を示す。住み始めてから結構経つ。けれどいつまで経ってもこの寂寞とした夜には慣れそうになかった。
結局自分は余所者で、ここに住む人々も余所者で、袖すりあうことなど考えもしないからだろう。
水が飲みたかった。薬も欲しかった。だけど、コンビニもなかった。
シャワーを浴びてさっさと寝よう。
見なれた白い建物に、安堵の溜息が出る。心持ち小走りになる。ロビーに入る。エレベーターはそこで待機していたのか、すぐに扉が開いた。コントロールパネルの五の数字を押して銀色の壁に寄りかかる。浮上感は頭痛に拍車をかけた。気持ち悪い。
独り言でもいい。何だかぼやきたかった。カラカラの喉で、掠れた声で「痛い」と言ってみた。
誰も聞いていないし、私にも聞こえなかった。
五の数字が点灯してがくんとエレベーターが止まった。降りて左の角部屋が私の部屋だ。ふらりと箱から出て薄暗い廊下を歩いていく。
心臓が飛び跳ねた。
部屋の前に、何かがある。
黒く、大きなものがうずくまっている。
どうしよう。
鼓動が早くなる。あそこは私の家の前で、私がこれから帰るところだ。このままでは帰りたくても帰れない。少ない光の下ではよく見えないが、あれはどうやら人で、扉にもたれかかっているらしい。うなだれていて、顔が見えない。
私は音を立てないように近づいていく。これが危険なものだったら警察に連絡しよう。
手には携帯電話。110をプッシュしておく。後はコールボタンを押すだけ。
扉の前に居座っている物がある程度判別できるようになってきた。覗きこむように姿勢を低くする。足下に黒くて短い棒が転がっていた。
「……っ!」
喉が引きつる。うなだれていたそいつが、顔を上げた。
「涼子、俺」ボロボロの姿でもわかった。「人、殺しちゃったよ……」
二年前に別れた暁生だった。
どうしても捨てられなかった服が役に立った。二年前に暁生が忘れていった麻のシャツと黒いズボン。紙袋に入った状態でクローゼットの奥に押しこんであった。他の何着かもその中に入っている。
暁生のカップも、茶碗も、箸も、灰皿も残っていた。
もらったものはみんな捨てたのに、暁生が使っていたものは捨てられなかった。
黒い染みがついた服を脱がせて、シャワーを浴びさせた。黒い染みはパリパリに乾いていて、水につけると赤い色が広がった。人から流れ出た命の欠片。
部屋に入る前、私を見つけた暁生は私に寄りかかってきた。その時、わずかに錆のような匂いがしていた。足下に転がっていた棒は小さなナイフで、先が少しだけ欠けていた。柄のほうにまでべったりと乾きかけた血がついていた。
私は暁生の後にシャワーを浴びた。汗を流し、さっぱりすると、すっかり酔いが醒めていた。まだ頭痛は残っている。
低い音でエアコンが動いている。シャワー直後の肌には冷えた空気が心地良かった。
暁生の前に麦茶を置く。私は冷蔵庫から出した錠剤を噛み砕き、コップの水を飲み干した。口の中からなくなると、また別の容器を持ってきて四粒、口に入れる。
そんな私を見て、泣きそうだった暁生の顔が少しだけゆるんだ。
「変わらないんだな」
「そう?」
「うん、そう」
手元のプラスチック容器を見る。白い不透明な容器に、Caと印刷されたラベルが貼られている。
目を上げて暁生を見る。
「いる?」
「いらない」
それだけ。
もう、お互いに会話がない。
久しぶり、も懐かしいな、もない。二人で向き合って座り、エアコンの音を聞いている。どうにも手持ちぶさたで落ちつかない。
一日の疲れもあってかなり眠くなっている。もうすぐにでも眠れそう。
時計の針は三時を過ぎた。
「ねえ、もう寝てもいいかな?」
はっ、とうつむいていた暁生が顔を上げる。
「あ、そうだね。もう、遅いしな」
暁生はソファでいい、と言い張った。私自身は、私がソファでもいいし、または一緒に寝ても構わなかった。
だけど、「もう昔の仲じゃないから」と暁生は苦々しく笑う。
昔のパジャマと毛布を渡し、「おやすみ」と言う。「おやすみ」と返ってきた声は昔のままだった。
その夜はそれだけだった。暁生がなぜか私のところに戻ってきた。けれど、理由も何も話してくれない。