5.
救急車とパトカーのサイレンの音が夜の街を駆け抜けて行く。人に不安しか与えない音だ。近付いてくるとドキリとして動きが止まってしまう。赤い回転灯も不安の一因だ。それは華やかな繁華街で、あるいは暗い住宅街で、一際目立つ。赤は動物の本能に訴えかける色だと、どこかで聞いた。
音が近い。その大きさに思わず立ち止まる。空に広がる音の所在を求めるかのように振り返る。
強烈な光が私を照らした。すぐそばをゴオーという音とサイレンが通って行く。角を曲がってきた救急車とパトカーがこの道を走って行ったことは理解した。
私はくらんだ目をこすり、何度も瞬きながらも歩いた。視界の隅に黄色いテープが見えたような気がしてそちらを見る。人だかりがあった。パトカーと救急車がでたらめにとまり、その周りを人が取り囲んでいる。電信柱と電信柱を繋ぐように、ぐるぐると黄色いテープが巻きついていた。ちょうど道を塞いでいるような形になっていた。
がやがやという野次馬のざわめきのなかに不穏な言葉を聞く。
また頭痛がぶり返してきた。平和な日本人は平和ゆえ、無関係な狂気を求める。
狂気。
みんな心のどこかに抱えている。抱えているからこそ、刺激として他人の狂気に関心を示す。
眩暈を覚えながらも白い建物に辿り着いた。サイレンが遠くなると、不思議と頭痛も治まった。エレベータ扉の脇の三角ボタンを押す。扉の上に並んだ数字が六、五、四、三、とカウントダウンしながら点滅していき、一のところに止まって扉が開いた。
箱の中に入る。パネルの五の数字を押す。内蔵が持ち上がる浮遊感。いつもの安心感も疲労感も出てこなかった。
肩から下げた大ぶりの仕事鞄に手を添えた。就職祝にもらった丈夫な黒の革鞄だ。この鞄だけが私の身を守る盾に思えてならなかった。
エレベータを降りて左の角部屋が私の家。薄暗い廊下を歩いて行く。突き当たりにあるのは部屋の扉ばかり。それでも私は気配を消そうとするかのように、ゆっくりと足音を立てないように進んでいった。
ドアノブに手をかける。回していくと何の抵抗もなく扉が開いた。
「お帰り」
エプロン姿の暁生が出てきた。ミートソースのいい香りがする。
「涼子、ラザニア好きだったよね? 後はオーブンで焼くだけだからもう少し待ってて」
楽しそうに言い、暁生はいつものように私の鞄に手を伸ばした。
「だめ!」
叫んでから、自分のやったことに気付く。無意識に暁生の手を払いのけていた。暁生の顔が呆然とし、悲しげに変化する。
「あ、ごめん。これ、大事な書類が入っているから。それで」
しまった、と咄嗟に取り繕おうとしている。そしてそれがさらに墓穴を掘っている。
ごめん、俺も悪かったよ、と暁生は渋い表情をしながらも無理に笑った。傷付けてしまったのはたしかだった。
「着替えてくるね」
そそくさと暁生の脇を通り抜け、寝室に入った。後ろ手に扉を閉め、鞄を両手で抱き締める。暁生のように抱き締め返してはくれない。そんなことをは知っている。
手探りで壁のスイッチを探し、パチン、と押した。ほどなく蛍光灯に明かりが灯る。鞄のチャックを開けた。中には分厚いコピー用紙の束が詰まっている。ホチキスではとめられなかったので大きなクリップでまとめた。鞄の中から出さずに紙束を適当にめくりながら内容を確認する。
それは地方紙の社会面のコピーだった。日付で二年前とごく最近の二つに分けていた。図書館に行って欲しい分をコピーしてきただけなので、まだ内容を詳しく読んではいない。
細かく読み上げなくても私には予感があった。この記事のどれにも暁生が話してくれた事件は載っていない、と。二年前に殺されたという話だった美咲は生きていた。暁生が戻ってきた時にも、路上で人が殺されたことは報道されていなかった。
多分、残りの三人についても同じだろう。全くそんな事実はない。
暁生は誰も殺していない。
コンコンと背後の扉が叩かれた。
「着替え終わった?」
「あ、うん。行くよ」
私は鞄をベッドの上に投げ出し、急いでスーツから部屋着に着替えた。
寝室を出ようとして一度振り返った。ベッドの上の、口が開いたままの鞄に気付き、慌ててチャックを閉じた。
食卓にはすでにサラダやスープ、食器がきっちりと並べられている。キッチンからはチーズを焼くいい香りが漂ってきた。
まだ大学生だった頃、「いい奥さんになれるよ」と暁生をからかったことを思い出す。私はあの頃に、二年前に戻りたいのかもしれない。こうやって帰りを待っていてくれる人が欲しいのかもしれない。
だからこそ暁生が手を血に染めていない証拠を求めるのだろうか。美咲に電話をして、図書館にまで行ったのは、暁生が本当の意味でここに帰ってきてくれることを求めたからか。
でも、と私の中のもう一人の私が問う。
暁生に帰ってきて欲しいのなら、真実は知らないほうがいいでしょう?
知らなくていいことまで知って、また彼がいなくなるかもしれないよ?
自分自身、何を求めているのかわからなくなる。
暁生が「あと少し」と言ってキッチンから顔を出した。右手にコルク抜きを、左手に白ワインの瓶を持っている。
「食前酒。飲んで待ってて」
コルクを抜き、グラスの一つにワインを注ぐ。私は席につき、かぐわしい酒を口に含んだ。そんな私を見ると暁生は満足そうに微笑み、またキッチンに戻った。
つい昨日、あんなことを話してあんなに泣いたのに、朝になると暁生はいつもと変わらない笑顔を見せていた。そして今日も楽しそうに食事を作っている。
「強いね、暁生は」
ワインを飲みながら呟く。もちろんキッチンには聞こえていない。
ふわりと風が私の顔を撫でた。街の喧騒をわずかに含んだ、生温い風。
ベランダへのガラス戸が開いていた。まだそれほど暑いわけでもない。閉めてもいいかな。
もう一口、ワインを口に含み、席を立つ。ベランダの戸に手をかけ、夜の街を眺めた。まだ消えない、いや、夜が明けるまで消えることのない街の光。暗い空を見上げても星はない
街の光に皆霞んでしまっている。人の最大の罪が何かと問われたら、真の夜を奪ったことと答えるだろう。
また風が吹いた――異臭が鼻についた。
風が含んでいたわずかな生臭さに顔をしかめる。
下を見る。
あのナイフがなかった。ビニール袋と新聞紙にくるまれていた、血のついたままのナイフだ。目を凝らしてベランダを探した。あれはあっても困るけど、なくても困る。扱いに悩んでいたのは事実だが、いざなくなると不安に駆られる。
「あ」
小さく声が出てしまった。
あった。
ベランダの隅。影が濃い部分にナイフがあった。
「どうして?」
自分ではそう呟いたつもりだったけれど、多分声は出ていなかった。
包んでいたはずのビニール袋と新聞紙が取り払われていた。
刀身が、わずかな光を受けてぬらりと鈍い光を放った。血を帯びている。それも一時間も経っていないと思しき新しい血。まだ乾いていない。
ナイフから落ちたのであろう雫がベランダのコンクリートに彩りをそえる。もはやどす黒く変色し始めてはいるが。
まさか。
フラッシュバックする暁生の顔。救急車とパトカー。サイレン。人だかり。
「できたよ」
その声と同時にオーブンを開ける音がした。
声のほうに顔を向け、再びナイフに視線を転じる。戸とカーテンを閉めて夕食の席に戻った。
正方形の白い耐熱皿が運ばれてくる。チーズについた焦げ目と香りが食欲をそそる。
暁生もエプロンを外して席についた。二つのグラスにワインを注ぐ。何も言わずに私たちはグラスを合わせた。
チン、と甲高い音が響く。
「本当は何をしたの?」
暁生が小皿にラザニアを取り分ける。ほこほこと湯気を上げる皿を私に差し出し、
「食べないと冷めるよ」
とたまらなく優しい声で言った。