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切り裂く欲望とその先(3):back/小説目次/next

3.

 今まで空けた容器を戸棚の奥に見つけた。
 暇だったので空になった栄養剤の容器を並べてみた。
 両腕いっぱい抱えて縦一列に置いていく。腕の中からなくなったら戸棚からまた何本か引っ張り出した。
 それを何度か繰り返す。
 玄関からリビングまで長い長いプラスチックの行列が並ぶ。ゆうに百本を超えた。
 よくぞこんなに、と自分でも呆れる。そして、何で捨てなかったんだろう、と疑問に思う。
 色も形も様々なプラスチック容器は、私の食生活そのものだった。
 リビング側の一番端の容器を指先で押してみた。
 ドミノみたいに崩れるかな、という期待。期待は裏切られる。
 五個先の細長い筒はくるくると回って倒れた。次の容器は倒れない。そこで止まる。
「何してるの?」
 暁生がしゃがんでいる私にグラスを差し出す。セロリとキュウリのスティックが入っていた。
「何だろうね」
 セロリをかじりながら答える。少し青臭いセロリはとてもみずみずしい。マヨネーズが欲しかった。
「すごい量。これ全部、君が飲んだんだろう?」
「うん。我ながらすごいと思う」
 最も多いのはマルチビタミンだった。ビタミンAもBもCもDも、ビタミンなら何でも入っている。これ一個で必要なビタミンは全て摂れる。そんな気がするから一番好きだった。真面目に食品で摂取すればどれだけの量になるのだろう。栄養剤なら数粒で済む。
「こんな生活でいいと思ってたのか」
 マルチビタミンの容器を持ち上げて、暁生は言った。
「不健康って言葉、知ってるよな」
「食事に執着ないの。知ってるでしょう」
 どれだけの量が並んでも、役目を終えたものはゴミでしかない。半透明のビニール袋を広げた。中央に大きく40リットルという表示。空っぽの容器を端からゴミ袋に入れていく。暁生はスティックサラダを食べながら見ている。
 ゴミ袋は一枚では足りなかった。三枚使ってやっと空容器の行列が消えた。膨らんだゴミ袋がその後に残る。
「ねえ、」ゴミ袋の口を結びながら問う。「どうして何も話してくれないの」
 スティックをかじる音がする。うさぎがニンジンを食べるのと同じ音だ。人間の形をした大きなうさぎはソファに座り、天井を見上げている。ゆっくりと、かじっている。
 言いたくない、と暁生の態度が言っていた。
「どうして戻ってきたの」
 床に座ったままの私。フローリングに膝をつき、自然と暁生を見上げる形になる。長めの前髪の下に色素が薄い瞳が見えた。虚空に向けられた視線は何も捕らえていない。
「そうだよな」ぽつりと暁生が呟く。「今、お前のところにいるんだもんな」
 最後の一口を時間をかけて噛み、飲み込む。大きく息をつき、ゆっくりと首を動かして私を見た。
 ふと、その瞳に優しい色の光が見えた気がした。優しいけれど、うっすらと悲しみと喜びの両方を内包した光。
「人を殺したんだよ」
 様々な感情が渦巻いて、本当の想いが見えない。
「それはあの夜に聞いた」
 私は表情を見せない。奥歯を噛み締め、これから来る何かに備えよう。そう思った。そんな私に暁生は微笑む。
「何人も殺しているんだ。一人じゃない」
 まるでそれが自分の仕事であるかのように、さらりと言う。微笑んだままで。
「怖くない?」
「どうして」
「昔の男が血塗れで戻ってきて、しかも何人も殺している、と言ったんだよ?」
 怖くない。私には全然怖くない。首を振る。
「本当に殺したかどうか、わからないから」
 ニュースにもなかった。誰かが殺されたなら必ず新聞に載る。平和な平和な日本は誰かが襲われただとか殺されただとか、そんな事件に過敏だ。人々は温かい泥のような平和にうずもれながら、心のどこかで自分とは無関係な狂気を求めている。
 ここ数日、新聞は隅から隅まで読んだ。特に社会面はしっかりと目を通した。けれど記事にはなかった。彼の言葉を信じるだけの裏付けは、ない。
 だから怖くない。私が知っている暁生は殺人鬼ではない。
「言葉だけで信用するほど甘い人間じゃないのよ」
 優しい暁生の瞳が笑った。
「変わったな」
「あなたは変わっていない」
 私は立ち上がり、ゴミ袋を玄関先に置いてくる。全部で三袋。中身は空容器ばかりで重くはない。カサカサという乾いた音は耳障りだ。ただ音が大きいだけで、綺麗な音でも何でもない。
 リビングに戻ると暁生は観葉植物に水をやっていた。霧吹きで葉の裏に水を吹き付ける。この観葉植物はもともとここにあったものではない。数日前に暁生が買ってきたものだ。
 部屋が寂しいから、と暁生は言った。実用性だけを重視した私の部屋は、彼の目には寂しいものにしか映らなかったらしい。こういう部屋が殺風景と称される。
 二年前までここにだって植物はあった。名前も知らない、鮮やかな色の花を咲かせる鉢植えが数個。それもやはり暁生が世話していたやつだった。世話をする人がいなければ植物は枯れる。植物だって生き物だ。
「変わらないことも、必要だよ」
 少しだけ、低い声で暁生が言った。
「時が経てば変わるわよ。それが自然だから」
 暁生が座っていた場所と同じところに座り、肘掛けにもたれる。
「私が知っている暁生は罪を犯せるような男じゃない。優しくて、穏やかで、でも臆病で、少しだけ強い人。人を殺せるような人じゃない」
「信じていないんだね」
「信じられないからね」
「じゃあ、教えてあげるよ。俺がしてきたことを」
 暁生は唇の端を吊り上げる。たったそれだけなのに、表情が変わった。同じ笑顔でも感情がまったく違う。うなじの産毛が逆立ったような感覚。暁生の知らない一面を見てしまった気がした。私は思わず目を伏せた。
「一人目は美咲」
 その名前に顔を上げた。
「涼子は知ってるよね。君の高校時代の友達だよ。二年前、この部屋を出て行ってすぐに美咲と出会った。彼女、この近くに住んでいたらしい。行くところもなく途方に暮れていた俺を、彼女が拾ってくれた。一週間くらいだったかな。世話になったよ。その間、『涼子はいい女だよ』と何度も言われたな。しつこいくらいだった」
 そこで一拍、呼吸を入れる。
「だから、殺した」
 暁生が私を見た。闇色の瞳が私をとらえる。底のない深淵のような光に感情はない。
 反応に困る。やはり目をそらすしかなかった。
「彼女が飲んでいたビールに風邪薬を混ぜた。それだけだ。それだけで、彼女は眠ったまま息をしなくなった。殺した、という実感はなかったよ。直接手を下さなくても人生を終わらせることはできるのさ」
 低い音が聞こえた。はっとして、暁生を見る。声を出して笑っていた。
 押し殺した低い低い声が響く。口元に手を当て、愉快なことでもあったかのように、そして残忍に笑う。
 知らない人。
 知らない殺人鬼。
 いやだ、聞きたくない。
 私の中の暁生が崩れていく。制服姿の美咲の笑顔が思い浮かび、それも積み木のように崩された。
 耳を塞ごうと両手を上げる。だが、それはかなわなかった。暁生の両手が手首をつかむ。抵抗も許されない。大きな掌が細い手首を包み込み、強い力で絞めつける。
 痛い。
 その一言が出なかった。暁生から感じる言葉にできない物が私を黙らせた。
「教えてあげるから、聞いてよ」
 耳のすぐそばで声がする。そう言えばよく通る綺麗な低音の声だったな、なんて恐れの中でぼんやりと思った。
「涼子じゃなかったら言わないよ」
 聞きたくない。だから離して。
 どうしても声が出ない。言おうとして口が歪むだけだ。音が出ようとして喉で詰まる。
 暁生は私の耳元で囁き続ける。

 親友の妹。家に招かれて行った時、首を絞めた。
 街で声をかけられたOL。二人でホテルに行き、動かなくなるまで浴槽に沈めた。
 女子大の学生。あとをつけ、彼女の自宅に着いてから、後ろから殴りつけた。

 期間はまちまちだった。美咲の次は八ヶ月後、その次は二ヶ月後、その次は半年後。
「最後の五人目はあの夜だ。俺はそのひと月前からある居酒屋で住み込みのアルバイトをしていた。いい職場だったよ。居酒屋と言ってもその辺の店よりは質が良かったし、待遇も良くて働き甲斐もあった。俺のような従業員が何人かいて、その中には店長の娘もいた。高校を出たばかりの女の子だ。俺はあの夜、その子を家へ送って行ったんだ。初めて二人きりになった。顔を合わせるのは店の中だけだったからね。周りには常に誰かいたものさ。
 そして彼女に告白された。『好きです。付き合ってください』ってね。まったく陳腐な文句でね。彼女が俺に好意を持っていることは知っていたよ。だけど、それがはっきりした途端、反射的に刺していた。いつも持ち歩いていたナイフを腹に突き立てた。軽く捻ると筋が切れる音がしたよ。口を押さえつけて次は胸。胸の深くまで到達したら抜いて首。そうやって全身を切り裂いていったんだ。押さえていた口からは血が溢れ、俺の手を汚した」
 突然暁生の手が緩んだ。力なく落ちた私の手を、暁生の手が優しくソファの肘掛けに載せた。
「苦しみ、血を流し、意識を失った彼女を見て、急に殺意が失せた。束の間冷静に返った。そしてあらためて動かなくなった彼女を見た。見て、俺は、暗く、深く、冷たいものが襲ってくるのを感じた。恐怖だよ。俺は初めて怖いと思ったんだ。怖くて怖くて、血に塗れた手も怖くて、逃げた。そこから逃げて闇雲に走った。汚れた手をシャツで拭い、走りながら何度もナイフを捨てようとしたよ。手を振り、握り締めた拳からナイフを落とそうとした。でも、どうしても離れないんだ。手に吸いついて、拳は俺の意思でも開こうとしなかった。身体が俺の物じゃなくなっていたんだ。勝手に動いていた。足はでたらめに道を走る。手はナイフを離そうとしない」
 弱々しくくぐもった声。水滴が一粒暁生の手の甲に落ちた。
「本当に怖かったんだ。自分が何だかよくわからなくて。気が付けばここの前にいた。あまり長い時間走っていたとは思えないから、たまたまここの近くに来ていたんだと思う。白いマンションをを見上げて君のことを思い出した。もうすがれるのは君だけのような気がした。扉にもたれ、何度も叩いた。叩いても叩いても返事がない。何十回叩いたかわからない。
 君はいない。そうわかると急に力が抜けた。もう引っ越したのかな。そう思うと、二年という時間がいかに長かったか感じて、涙が出てきた。嘆くしかなかったんだ」
 暁生の手が伸びてきた。私は肩をすくませる。長くて細い指が首に絡む。じわじわと力を込め、呼吸を奪わんと絞めてくるのだ。そんな想像で頭がいっぱいになった。
 だが予想は裏切られる。今日はこれで二回目だ。
 伸びてきた手は肩口から背に回り、私を包み込んだ。そのまま胸に引き寄せられた。見た目よりも厚い胸の温もりに心奪われた。
「会いたかったんだ。とても会いたかった。会って、こうやって抱き締めて、謝りたかった。謝って、今度は俺を許してもらいたかった。別れてから二年間を否定してもらいたかった。俺は悪くないって言ってほしかった」
 声がくぐもって、そこから先は何を言っているのか意味がとれなくなった。
 暁生は私に会いたくて戻ってきた。漠然と拡散していたものが、一気に凝縮した。想いが言葉となって、涙となって暁生から溢れてくる。
 子どものように泣きじゃくる。暁生に抱かれているはずなのに、私が抱いているかのような錯覚。いや、それはきっと錯覚じゃない。暁生は二年間ずっと、私に包み込んでもらいたいと思っていたのだろう。
 触れ合っている部分から直接嗚咽が私の中に響いてくる。
 その音がいつの間にか別の声と重なっていた。私の中の、もう一人の私の鳴き声だった。
 二年前の私だ。何となくそう思う。そしてそれは外れてはいなかった。
 二年前、暁生が出て行った直後の自分だ。一晩中泣き続け、半月の間塞ぎ込んでいた私。あの時は自身の想いの強さに驚いた。心の中にあった暁生のスペースがあまりにも大きかったことにも驚いた。
 半月過ぎた朝には、暁生を忘れることにした。貰った物を全部捨て、使っていた物を一つにまとめて目の届かないところに押し込んだ。水をやらなくなった植物は一つ一つ生命を失い、冷蔵庫は空間が目立つようになってきた。そうやって時間をかけて部屋の中から暁生の痕跡を消して行った。暁生の存在がなくなった部屋はとても殺風景で、それがまた私に似合っていた。
 痕跡はなくなっても気持ちはなかなか消えなかった。未練なんて手垢のついた言葉を使いたくはないけど、大事だった人を忘れるなど簡単ではなかった。それでも大学を卒業し、就職すると、暁生のことは日常の忙しさに埋没していった。
 あれから泣くこともなくなった。かつての常に不安定な状態にいた私はいなくなった。
「ごめん」
 ぽつりと言った。精一杯、喉を絞ってそれだけを言った。あまりにも小さな声は暁生の泣き声にかき消された。
 暁生は私を抱いたまま泣き続け、私は腕の中でただじっとしていた。
 栄養剤の空容器が並んでいたところを見つめ、空容器をその場所に思い描いた。
 暁生は変わらなかった。私への想いを募らせ、あの頃と同じ生活に戻りたがっている。だから食事を作ってくれる。だから毎日私の帰りを待っている。
 でも、私は変わってしまった。

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