2.
夢も何も見なかった。唐突に眠りに落ち、唐突に目が醒めた。
見やすいだけが取柄の目覚し時計を引き寄せて、ぼやけた頭で見る。
ちょうど昼。12時を過ぎた頃。
髪はバサバサ、顔には油が浮いている。風呂に入りたいな、と一人ごちてみる。
髪を手櫛で梳きながら寝室を出る。と、台所で水音が聞こえた。心臓が一際大きく鳴った。従来の日常になかった音に、動揺していた。
リビングのソファの上の毛布を見て思い出す。毛布は几帳面に畳まれてあった。そんなところが、暁生らしい。
「起きたの?」と声がかかる。同時にまな板を打つ包丁の音。
「あ、うん。シャワー浴びてくる」
こんな姿を見られる前に、と私はそそくさとバスルームに移動した。一緒に生活していた頃は平気で暁生の前に出られたのに、今は恥ずかしい。時間が経つというのはこういうことなのだろうか。
服を脱いで蛇口を捻る。シャワーから勢いよく水が飛び出した。流れて、蓋が外れた排水溝に吸いこまれていく。しゃがみこんでじっとそれと眺めていた。頭の後ろに水流が当たる。暗い管の中からは水が流れ落ちる音がした。そんなことしていても水の無駄。やがてそう気付き、私は排水溝に蓋を戻し、立ち上がった。
ぬるい水で汗を流し、乾いたシャツとロングスカートを着る。
リビングに戻ると、ほのかにいい香りが漂ってきた。何かを焼いているらしい油の匂いだ。
「何やってるの?」
キッチンを覗くと、暁生が目玉焼きを焼いていた。卵が二つ、ベーコン二枚のベーコンエッグだ。
「朝ご飯。何で冷蔵庫の中が水と栄養剤だけなんだ?」
黄身が半熟の卵を皿に盛り付ける。そして、二つ目を焼き始めた。ベーコンに軽く火を通し、片手で一個ずつ卵を割っていく。私はその手つきを見ていた。長くて細い指。昔と変わらない。
「まともに物食べてないんだろう? 栄養剤で全部補おうなんて無理なんだよ。悪い癖は直ってないんだな」
私は冷蔵庫を開けて水のボトルを取り出す。白いプラスチック容器の隣で、サラダが冷やされていた。
「それで栄養取れているつもりかよ。そんなことばっかりしてると、何も食べられなくなるぞ」
そんなことわかっている。二年前までは暁生が作ってくれた。今みたいに大好きなベーコンエッグを作ってくれた。暁生がいた頃は、冷蔵庫には絶えず新鮮な食材が入っていた。今入っているのは、ミネラルウォーターのボトルと栄養剤が入った容器。そしていくばくかのアルコールの瓶。
気が向けば料理を作った。気が向かなければ作らなかった。私の日常では気が向かない時ばかりで、そんな日は適当に済ませた。会社から駅までの道にはコンビニもファミレスもある。
それが悪いとは思わない。私の生活にはそれで充分。
「もう少しでできるから」
そう言われて私はリビングに戻る。テーブルの上の新聞を広げ、テレビを点けた。
遠い国での内乱と、天皇夫妻の幼稚園来園のニュース。日本は平和な国だ。CMになるたびチャンネルを変えた。
『犯人は被害者をナイフで殺害後、逃亡し、現在も逃亡中です』
その一言を、他人事だとばかりに淡々と言うアナウンサーを探した。
人がナイフで刺されたニュースはなかった。暁生が殺した誰かのことはニュースになっていない。
暁生が私のもとに戻ってきた。血塗れの姿で。
それは彼の身に起こったことを雄弁に語っていた。ニュースにならないわけがない。
昨晩のパトカーの音。あれは暁生を探していた?
前髪をかきあげる。窓の外を見た。何かが見えるわけでもない。コンクリートの建物と、申し訳程度に植えられた木が見える。いつもの風景だ。この二年間、特に変わっていない。
暁生も変わっていない。
私は変わったのだろうか?
昨夜の暁生の言葉を思い出す。
「変わらないわけないよ」
呟いてみる。言葉は何にも吸収されず、虚空に消えた。
夜になっても誰かが殺されたという報道はなかった。
暁生が持っていたナイフは、ビニール袋と新聞紙でくるんでベランダに放ってある。
服は、洗っても洗っても赤黒い色が落ちなくて、結局細切れにしてゴミに出した。
全て私が勝手にやった。処理されてしまったことを、暁生は怒らなかった。むしろ、そのことに関しては一言も話さなかった。
何もなかったかのように、二年前に戻ったかのように、暁生は振舞った。部屋を掃除し、私の好きな食事を作り、時間が空けば読書か散歩。
私の部屋と暁生だけが、二年前に戻った。私だけが戻れない。
平日は仕事がある。朝、暁生が作ってくれた朝食を食べ、合鍵を渡して部屋を出る。
外には私の日常があった。
真面目に仕事をこなし、時には上司に怒られ、時には同僚と笑う、私の日常。
仕事の間だけは暁生のことを忘れられた。あの家には私だけで、栄養剤を噛み砕いて水を飲む。暁生がいたのは二年前。簡単な言葉だけを交わし、私の部屋から出ていった。
だから、帰宅するとどきりとする。夕食を作って待っている暁生が夢に思える。
「お帰り」
そう言って弱々しく笑う暁生。どことなく、年老いた犬のようだった。
「ただいま」
私も微笑む。だけど、この微笑みは好きな人に向けてのものじゃない。ほんの少しの好意と、形式と、哀れみと、困惑がない混じっている。
ずっとこのまま暁生との生活が続くのか。
幸せ、なのかもしれない。誰かが家で待っていてくれる。そんな毎日は理想のものではある。だけど、私はたまらなく不安を感じる。急に戻ってきた時間と自分とのギャップに戸惑っている。
どうしようにもどうにもできない。
暁生は黙ったまま。