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時間病(1):小説目次/next

 時計が、遅れていることに気が付いた。
「あれ?」
 いつもの通学路の時計台が十時を報せた時、僕の腕時計は九時五十五分だった。
「おかしいなぁ……」
 朝、ニュースを見ながら時計を合わせたばかりだった。これは毎朝の習慣で、休日以外はいつも時計を合わせる。八年間使い続けた古いアナログ時計はこうやって合わせないと一日後には五分遅れてしまう。そう、古いから狂ってしまうのはしかたがない。だけど、つい二時間前に合わせたのに、すぐ五分も遅れてしまうなんて、ありえない。
 僕は首をひねりながらも時計を五分進め、乗っていた自転車の速度を上げた――二時限目の講義は十時から始まる。急いで自転車を止めた時、見慣れた教授が講義棟に入っていくのが見えた。鞄を肩に掛け、僕は走った。学生掲示板の脇を抜け、髪の長い女子学生にぶつかりそうになり、廊下を走る。僕が教室に入った時には、すでに教授は先週配布したプリントを読み上げていた。
 階段教室の一番左端、前から五番目の席につく。隣には悪友の慎二が座っていて、こっちを見てニヤニヤと笑っている。
「間に合って良かったな」
 A4の紙を僕に渡す。この紙には受講者の学籍番号が並んでいて、ここに自分の名前を書くと出席となる。慎二からボールペンを借りて名前を書くと、紙を後ろに回した。
「珍しいな。俺が始業前に来てお前が遅刻するなんてな。いつもの逆だ」
「きっと槍が降ってくるよ」
 鞄からテキストとルーズリーフ、筆記用具を出し、教授の話を書き留めていく。ほとんど板書しないから話していることをよく聞かなければならない。注意していないと聞き漏らすし、内容がわからなくなる。集中力が必要だからとても疲れる講義だ。しかも毎回出席まで取るし、厄介と言えばかなり厄介だ。この講義を嫌っている学生はかなり多い。
 しかし、集中すれば時が流れるのは早いわけで、気がつけばもう終わる頃だった。ルーズリーフは裏表二枚分消費した。教授は来週の連絡で授業を締める。横目で慎二を見ると、机に突っ伏して眠っていた。顔を僕の方に向けている。この上なく安らかで気持ち良さそうな寝顔だ。僕が頑張っている間、こいつはずっと眠っているのだ。この時間だけではなく、ほとんどの講義でそうだ。そして試験やレポート締め切りの直前になって僕のノートを頼ってくる。勿論、タダで貸すわけではないけど、毎回こうではこっちがイヤになってくる。
 急に憎しみが湧いてきた。慎二の耳を引っ張ってやろう、と手を伸ばす。
「あ? 終わった?」
 むくり、と慎二は顔を上げる。僕は慌てて手を引っ込める。
「終わったよ」
 喋るだけ喋ると教授は教室から出ていった。その時の顔が心なしかすっきりしたように見えるのは僕だけだろうか。回収した出席用紙をファイルの間に挟むと、自分の頬を撫でながら足取り軽く出て行く。
「次の授業もあるんだろう? その前に学食行こう、学食」
 慎二は僕のように荷物をまとめる必要がない。ノートすら机の上に出していないから、出席を書くために使ったボールペンをバックパックに放り込むだけだ。そもそもこいつはノートを取らないから鞄も小さく、とても身軽だ。A4サイズのファイルを入れるために大きな鞄を持ち歩いている僕とは全く正反対だ。
 性格もそうだ。いいかげんなことが嫌いな僕に対して、慎二は何事もアバウトだ。こいつに律儀さを求めてはいけないし、ましてや真面目な学生も期待できない。
「お前が遅刻するとは思わなかった。何かあったのか?」
 学生食堂で辛いだけのカレーを食べながら慎二が訊いてくる。僕は安くて量があるだけのうどんをすすりながら、
「腕時計が遅れていただけだよ。いつものように七時には起きていたって」
「ホントにお前って真面目だねぇ。俺を見習って少しは力を抜いてみれば?」
「アホ。お前は力抜きすぎなんだよ。少しは俺のように真面目になれ」
 ヤダよ、と言って慎二はナルトを口に放りこむ。……あ? ナルト?
「俺のぉ!?」
「返そうか?」
「いらないよ!」
 少ない具の中で唯一の楽しみであるナルトを取られると、かなり悲しい。しかし、一度取られたナルトを返されるのはもっと悲しい。残りのうどんをすすっていると、もうカレーを食べ終わったらしい慎二が、
「時計直しておけよ」
 と言って携帯電話を差し出してきた。画面を見れば、すでに117の番号にかける準備ができていた。適当に合わせているだけの自分の時計では僕の役に立たないことがわかっているらしい。僕はありがたく受け取ると五分遅れていた時計を正確に合わせるために腕から外した。
「……あれ……?」
 五分進めたはずの時計はまた五分遅れていた。

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