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時間病(3):back/小説目次/next

 時計が、遅れていることに気が付いた。
「あれ?」
 近所をゴミ収拾車が回り始めた時、僕の腕時計は七時ちょうどだった。
「おかしいなぁ……」
 ゴミ袋に埋もれかけた集積所の看板を確認する。朝の八時までに出しましょう、とゴシック文字で大きく書いてあった。つまり、ゴミの収集が始まるのは早くても八時過ぎ。収拾が始まってしまっているから今は八時過ぎ。とても明解で簡単な論理だ。
 山となったゴミ袋の頂きに、さらに両手に下げていたゴミ袋を載せる。重みが加わった山は少し傾き、一部で雪崩も起きた。半透明な白色の袋が歩道を侵食せんと転がってくる。しかし、勇敢な僕の手により道は救われた。
 転がり落ちた一袋をまた頂きに載せていると、緩やかな速度で走る収拾車が近づいてきた。
 僕は時計を進めながら部屋に戻った。とりあえず一時間。ネジを回し、八時を超えたあたりで手を離す。正確な時刻は時報を聞いて早く合わせよう。時報は遅れない。時報は絶対だ。時計は時を計ると書く。正確に時を刻まなければならない。目が別の時計を探し始めた。意識が太陽の影から時刻を割り出そうとした。時刻がわからないとわかった途端、身体が時刻を求め始めた。
 時報を聞いて時計を合わせると、鞄を抱えて部屋を出た。学生の本分は勉学。講義に遅刻するのは許されない。幸い、今日の講義は二時限目から。今から講義室の近くにいれば遅れることだけはない。
 家と大学を結ぶ途中の並木道は静かだった。出勤や通学のピークは超えたが、散歩に出るには少し早い。杖をついたおじいさんが病院のほうに向かって歩いている他は、人は見当たらなかった。速度を落とし、ゆっくりと進んだ。
 葉の間から細く降り注ぐ陽光は柔らかい。緑の道がどこまでも長く続いている。のんびりと歩いていたおじいさんが、ふと立ち止まった。ガラスに埋め込まれた市街地図を眺めている。僕は自転車を止め、地面に足をつけた。両手の親指と人差し指で枠をつくる。その中におじいさんと並木道を収めた。地図を眺めるその姿は完全に景色に溶け込み、一枚の絵になっていた。おじいさんと僕だけの煉瓦道は、時が止まっているようだった。
 ほどなく、再びおじいさんは歩き出した。僕もペダルに足をかけ、踏みこんだ。
 どうせだから遠回りしていこうと思った。いつも使う西門ではなく、南側の正門からキャンパスに入った。歩きだったら時間がかかるけど、自転車だから大したことはない。事務棟の脇を抜け、記念講堂の前を通り、図書館の脇を抜ける。ここから先は道が細くなるから自転車を降りた。急いでいたらそのまま走り抜けていたけど、今日は大丈夫。余裕がある。
 もう講義棟は目の前だ。時計の時刻はまだ九時になっていない。あとはロビーでのんびりと本でも読んでいればいい。
 油が足りない自転車は、押しているだけでも時折軋んだ声を上げた。
「あの」
 自転車置き場に愛車を入れようとした僕を、誰かが呼び止めた。はい、と返事して振り向くと、そこには次の講義の教科書を胸に抱えた髪の長い女子学生がいた。
「今日、慎二さんにお会いしますか?」
 真っ赤な顔で、うつむいたまま聞いてくる。ちょっと見た感じでは、一般的な男性が思い浮かべるお嬢様みたいだ。男に免疫がないという、今時にしては珍しい子かもしれない。
「さあ。次の講義は出欠ないから来ないと思うけど」
 慎二は出欠を取る講義にだけは来るけれど、取らない講義は基本的に出てこない。それも全て、僕のノートをあてにしているからだ。僕はあいつのためにノートを取っているわけじゃないんだけど。
「今日じゃなくても構いません。これ、慎二さんに返しておいてください」
 差し出されたのは一冊のファイルだった。薄緑色の表紙にはとても見覚えがある。
「ああ、いいけど」
 受け取って表紙をめくると、やはり見覚えのある字が出てきた。僕が慎二に渡した講義ノートのコピーだった。あいつはすぐなくすから、と余っていたファイルに入れて貸したものだ。よりによってまた貸ししていたとは。
「これ、俺のノートだから、慎二から借りるくらいなら直接俺んとこに来てよ。貸してあげるから」
 溜息混じりに言葉を吐くと、人形のようにうなずいた女子大生は走るように去っていった。古びた小説のように例えるならば、風のように去っていった。あっという間に姿が見えなくなる。それも、講義棟に入っていったわけではない。まったく反対の方向に走り去って行った。
 あの子は一体何なんだ、と心の奥底で呟いた。

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