[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

時間病(7):back/小説目次/next

 時計が、遅れていることに気が付いた。
「あれ?」
 短針は五で、長針は一と二の間にあった。秒針は六の位置。一秒経っても二秒経っても少しも動く様子がない。古いアナログの腕時計は止まっていた。まさか、と目覚まし時計を見た。合わせることを諦めていた時計は、おかしな時間を示しながらも一定のリズムを刻んでいた。
 大丈夫、まだ僕の時間は止まっていない。
 ならば腕時計は壊れてしまったのだろうか。元の持ち主に聞いてみようと実家に電話した。まず聞こえたのは遠い呼び出し音が五回。その後に、少ししゃがれた男の声が聞こえた。
「父さん? 僕なんだけど……」
 頑固な父の声は心なしか穏やかだった。僕にはその本当の理由はわからなかったけど、電話が半年振りであることを思い出した。
 父が祖父から譲り受けた時計は、僕の手に渡るまでの百年間、壊れたことは一度しかなかった。その一度というのも、兵士として戦場に赴いた祖父の腕を銃弾が掠ったためだったという。ガラス板と針、幾つかの歯車を交換しただけで直ってしまった時計は、幸運の時計として孫の僕にまで伝えられた。いくら古くても突然止まるのはおかしいと父が言った。もしかするとネジが切れたのかもしれない、とも言った。
 ネジは毎日巻いているよ、と言うと、いやそのネジじゃないんだ、と返された。
 この腕時計は、本当ならば二箇所ネジを巻かなければならないらしい。普段は時刻合わせのついでに横のネジを回せばいいけど、たびたびもう一つのネジを巻かなければ、唐突に止まってしまうことがある。電話口で言われた通り裏返すと、刻まれた祖父の名前の横に穴が空いていた。受話器を肩に挟んだまま、穴にネジ巻きを当てた。歯車が回る小さな手応えがあった。ニ、三度回すと、秒針が六から七へ移動を始めた。腕時計は再び動き始めた。
 過ぎ行く一時一時を表しながら、更に未来を追い求めて回転運動を続ける。
 時計は僕がいないと正確な時刻を知らない。時計は僕がいないと止まってしまう。こうやって時々ネジを巻いてやる人間が欠かせない。
 でも、そのネジを巻いてやる人間がおかしくなったら?
 ネジを巻く人間のネジを巻く人間が必要だ。
 きりきりとネジを巻き、正確に時間を合わせてくれる。そんな人間が常に傍らにいなければ、満足に一個の人間として社会生活を営むことができない。社会に適応できないというのはつまり、人間として認められていないのと同然のことだ。
 僕はどうすればいいのだろう。
 それこそ、慎二の祖父みたいに家族とともに生活することで、表面だけでも正確な時間を刻むのか。大学をやめてこのアパートを引き払い、実家に帰るのが最善の策なのだろうか。
 農家なり商売なりをしていれば、跡を継いでずっと家で過ごすこともできた。だが残念ながら、我が家はごくごく普通のサラリーマン一家であり、家業というものがない。家に帰っても、また外に働きに出て行くだけだ。
 それに、大学はちゃんと卒業したい。入りたくて入った大学だし、やりたい研究もある。今、こんな中途半端なところでやめては一生の悔いが残る。
 どうしよう。
 僕一人ではどうにもならない状況に苛立ちが募る。何でも一人でできると信じてきたのに。これまで描いていた人生設計を根本から覆されてしまった。絶望の淵を覗くというのはこういう気分なのかと溜息をつく。
 何度溜息を吐こうとも、事態が好転することはないし、僕の病気が治るわけでもない。
 どうしよう。
 思うだけでは飽き足らず、口に出して三回言った。三回言ってもやはり虚しいだけだった。
 突然、滅多に鳴らない携帯電話が鳴り出した。慣れない音に驚いて手に取る。今日二回目の着信は、また慎二からだった。
「もしもし?」
「俺だ、俺」慎二の第一声はいつも同じ。「さっき親父に電話したんだ。そしたら明日うちに来いって。ちょうど土曜だし、講義もないから構わないよな」
「それは別にいいけど、お前のバイトは?」
「休んだよ。善は急げだ」
 心の中で慎二に感謝する。絶対口には出さないが、礼を言っても言い足りない。
「明日朝、迎えに行く。一泊するくらいの準備はしとけよ。そん時にいい薬も一緒に持ってってやるから」
「薬? そんなのあるのか?」
 そう聞くと、あのニヤニヤした声で、
「まあ、明日を待て」
 という言葉が返ってきた。僕は何だか嫌な予感がしてならないけど、不可思議な状況の原因がはっきりしない今、頼れる者が慎二とその親父さんたちだけというのも事実だ。たしかに時間病という病気のことはすぐには信じられないけど、その可能性を考慮してもいいだろう。ここは藁をもすがる思いで。あるいは清水の舞台から飛び降りる思いで。
「じゃあ、明日の朝な。行く前に一度電話入れるわ」
「あ、ちょっと待って」電話を切りそうな気配を感じ、慎二を引き止める。「今の時間教えてくれ」
 次に聞こえてきたのは時刻ではなく、呆れたかのような溜息だった。
「ほんっとにお前って生真面目なのな。もう夜も夜。後は寝るだけだというのに、時間必要か?」
「頼む。時計を合わせたいんだ」
「それだってどうせ遅れちまうだろう。気休めだってわかってんの?」
「わかってるよ。でも、わからないと落ち着かないんだ」
 やれやれという声が細長い機械の奥から聞こえる。再び聞こえてきた大きな溜息の後に、慎二は現在時刻を告げた。手元の腕時計とは実に八時間の誤差があった。竜頭を巻き、長針を八時間進める。
 僕には、時計はきっちり一秒ずつ時を刻んでいるように見える。しかし、この一秒一秒が微妙に現実の時間からはずれている。たとえ一秒が小さなずれでも、数分、数十分、数時間となればずれは大きくなる。目に見えているようで見えない狂いは、そのまま僕の狂いでもある。
 僕に使われているばかりに正確な時刻を刻めず、役立たずと成り果ててしまった腕時計。それでも僕は腕に時計を巻き続けるし、できうる限り時刻を合わせ続ける。それが持ち主の責務であり、かつて祖父の物だった古いアナログの腕時計に大してしてやれる精一杯のことだ。
「明日、よろしくな」
 おやすみ、と言って電話を切った。腕時計を外して枕元に置き、早々に布団に潜り込む。最後に目覚し時計をかけなかった夜はいつだったかと考えているうちに、意識はゆるやかな眠りの中に埋没していった。

back/小説目次/next