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時間病(2):back/小説目次/next

 時計が、遅れていることに気が付いた。
「あれ?」
 いつもの朝のニュースで八時を告げた時、僕の腕時計は七時四十分だった。
「おかしいなぁ……」
 八年間使い続けた古いアナログ時計は一日後に五分、時が遅れてしまう。それは計ったようにきっかり五分だ。秒数まで含めて、ぴったり五分。誰かが僕の寝てる間に遅らせているのではないのかと疑いたくなる。それがこの数年、毎日続いてきた。朝起きて、腕時計を見ると五分遅れている。僕はテレビをつけて朝のニュースを見ながら合わせる。毎朝の習慣を休日以外は必ず行ってきた。二十分も遅れたことは今までに一度もない。
「おかしいなぁ……」
 もう一度呟き、ネジを回して時計を進める。分針は狂っていたけど、秒針は狂っていなかった。テレビの左隅に表示された数字が一つ進むと、時計の秒針はゼロの上に来た。二十分進めてそこで止めた。文字盤の上のガラス板が僕の顔をわずかに映していた。
 今日は一時限目から講義がある。パンと牛乳だけの簡単な朝食を取り、鞄に必要なものを入れていく。その間もつけっ放しであるニュースでは、どこかの国の地震の様子を映し出していた。建物が崩れて、電柱が倒れて、あちこちで白い煙が上がり、生き埋めになった家族を助けて、と僕達とは明らかに異なる人種の顔が訴えて。地震の国である日本も、いつこのような災害が襲ってきてもおかしくない。例え明日、直下型地震が僕と僕の部屋を襲ったとしても、どうしようもないことだ。
 だけど、そんなことになったら時計が合わせられないよなぁ、と声に出さずに呟いて、僕は大きなA4のファイルを入れる。一通りの準備を終えて、僕は掛け時計を見上げた。
「あれ?」
 時が遅れていた。テレビ画面の左隅の数字と、壁に掛けられた時計には、三十分の差があった。入学祝いとして一年前に買ってもらったばかりの時計だ。まだまだ新しく、時々一分一秒ずれないように時を合わせている。古いアナログの腕時計なら遅れたとしてもまだ、古いからだと納得できる。しかし、まだ古いとは言えない掛け時計までが狂うとは、信じられない。
 いや、そんなことはない。もしかすると電池が切れそうなだけなのかもしれない。こういうことには案外気が付かないものだ。いつの間にか電池が切れて、いつの間にか針が止まっている。朝、学校に行ってみたら教室の時計が三時を指して止まっていた、というような経験はあるだろう。
 七時五十分を示している掛け時計。これを睨んでいて、もう少しで講義が始まってしまうことを思い出した。時計を直している暇なんてない。僕は重い鞄を肩に掛ける。このままでは今日も遅刻する。
 ギヤも何もついていない、ただ走るだけの自転車に乗り、いつもの道をいつも以上のスピードで駆け抜ける。悲痛な悲鳴を上げながら、講義棟の前に自転車を止める。視界の隅に相変わらず軽装の慎二がのんびり歩いているのが見えた、慎二は僕の姿を見つけて手を上げたようだった。でも、僕は肩に掛けた鞄を押さえながら走る。
 教室に入った頃には非常勤講師がプリントを配り始めていた。入口からすぐの席に座り、鞄を下ろして大きく息を吐いた。そして慎二が僕の隣に座ったのは、講師がプリントの解説をしている時で、眠ってしまったのはそれから更に数分後のことだった。
 講義の合間に慎二の顔を盗み見る。また朝までゲームでもしていたのだろう。ただ眠るだけに来る講義なら家でずっと眠っていればいい。だけど、そういうことになるとこいつの代返はきっと僕の役目になるのだろう。表情らしい表情のない慎二の顔。そんなに疲れているならアルバイトの後はおとなしく眠ればいいのだ。どうせノートは僕のものをあてにしているのだろうから。
 見ていると次第に慎二が憎くなってきた。その額にシャープペンを刺してやろうかと思って構えた。そこで、
「来週は小テストを行うからな。範囲は今までやってきたところ全部だ」
 一際通る講師の声が響いた。生徒の非難の声と、チャイムが重なる。
「ノート、貸してくれるよな」
 机に伏せたままの姿勢で慎二がニヤリと笑った。
「タダじゃやらない。五千円」
 僕は慎二の顔の前でルーズリーフの束を揺らす。慎二が束に手を伸ばしたところで、引き寄せる。慎二がまた手を伸ばす。僕は手を引く。猫と遊んでいるようにしか見えないだろうが、単位がかかっているだけに慎二本人は真剣だ。
「五千円は法外だ。もっとまけろよ」
「毎回ちゃんと出席した結果のノートだ。まだ安いほうだろう」
「守銭奴!」
 典型的な遊ぶ大学生の慎二だが、実は実家が厳しく、留年でもしようものなら勘当されてしまうらしい。試験前ともなればアルバイトも全て休み、家にこもって必死に勉強している。過去問と講義ノートのコピーを集めている時の慎二はとても腰が低い。そんな彼には講義ノートの値が高くても背に腹は変えられない。渋々と財布から千円札を五枚、出しかけたところで慎二の手が止まった。
「そう言えば、お前に金貸してたよな?」
 千円札がその姿を現す前に、財布は彼のポケットに戻っていった。

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