[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]

時間病(6):back/小説目次/next

 結局ランチを半分以上残してしまった僕は、ウェイトレスに謝りながら皿を下げてもらい、コーヒーを頼んだ。ウェイトレスのにこやかな笑顔が、僕の皿を見た一瞬だけ苦笑に変わった。こういう時、無用な罪悪感に苛まれてしまう。厚顔無恥な慎二などは、どんな時であろうとけろりとした顔をしているものだ。
 すました顔の別のウェイトレスがコーヒーを持ってきた。ついでに注文を書いた小さな紙をくるりと丸めてテーブルの上の筒に差した。
 運ばれてきたコーヒーを一口飲むとようやく落ち着いた感じがした。今日の講義は午後に二限分だけ。始まるまではまだまだ余裕がある。それに、今日は慎二と一緒だから遅れることもないだろう。こんな男に頼るのも癪だけど。
「んで、時間が遅れるってお前の周りだけ?」
「そうだよ」
 僕が遅刻してしまうその原因、あらかたの事情を説明しても、慎二は特に驚いた風もなかった。
「手持ちの時計だけじゃなくて、NTTの時報までもが狂ってしまうと」
「そう。俺の周り全部が変な時間を指してるんだ」
「でも、それってみんなバラバラの時間ではないんだろう?」
「うん。同じ時間だけ遅れてる」
「じゃあ、決まりだな」
 慎二が空いたコーヒーのカップを軽く持ち上げ、フロアを忙しく移動するウェイターにおかわりを要求する。別のテーブルから皿を下げた彼は、慌てて引き返してきて慎二のカップにコーヒーを注ぐ。ブラックのままカップを傾けた慎二から出てきたのは信じられない言葉だった。
「それは時間が遅れる病気だ」
「はあ?」
 思わず間の抜けた声が出てしまう。
「時間が遅れる病気ぃ?」
 思わず口に出して反芻してしまう。
「そ。時間が遅れる病気。正確には何とかかんとか症候群っていう難しい名前がついてるんだけど、時間病って通称で呼ばれている。症状は体内時計の遅延。普通の人間よかペースが遅くなるんだ。くそ真面目な人間ほどなりやすいらしい。詳しい原因はわかってないが、自律神経失調症が進むとこうなるとかいう説もある。で、この病気の困ったところは、それが周囲にまで影響を及ぼしちまうってところだな。生物も無生物も関係ない。他のものの時間も遅らせてしまうんだ。お前の時計が遅れてしまうってのも時間病のせいだね」
「初めて聞いた」
「そりゃそうだろ。公には知られてないもん」
 そんな病気が存在するということ自体が驚きだ。人間の時間が遅れる。それではまるでSF映画だ。
「まず一人ではまともな社会生活は送っていけないな。普通のサラリーマンなんて言語道断。ひと月もしないで首を切られるよ」
 他人事のようにさらりと言ってのける。いや、慎二にとってはたしかに他人事なんだけど。僕はどうにも落ち着かず、紙ナプキンを畳んだり広げたりを繰り返す。何かしていないと、自分の冷静な部分がどこかに行ってしまいそうだ。
「まあ、こんな病気だけど悪いことばかりじゃない。体内時計が遅いということは、他の人間よりも脈拍が遅いってことだ。絶対的時間では他のまともな人間と同じだけ生きる。だけど相対的時間では時間病患者はとても長命なんだ」
「ええと、それはつまり?」
「すっげー長生きでなかなか歳食わないってこと。還暦過ぎてんのに、見てくれが二十代の患者もいるよ」
 かつて人類が夢見た不老長寿。不老とまではいかないけど、それに近い物はあるということだ。それこそ夢物語で、にわかには信じ難い。
「どうしてそんなに詳しく知ってんの?」
「俺のうち、医者なんだよ。それ専門の」
「ええ?」
 恥ずかしながら、大声を上げてしまった。店内の客も、店員も、僕を振り返る。一斉に注目されることの気まずさに顔が赤くなる。
「親父と爺が医者なんだけど、二人の共同研究テーマなんだよ。でね、うちの爺が時間病患者なんだ。見た目は親父より若い。どっちが親なんだって感じ。見たら驚くよ。爺のこと、俺の兄貴だと思うかもな」
 あはは、と屈託なく笑う。僕にはとてもとても深刻な話にしか聞こえないのに、そんな軽く話してどうする。
「でも、なかなか歳を取らないってのも一概にいいとは言えないんだ。うちの婆ちゃんが嘆いてるんだよ。私はこんなにしわくちゃなのに、勘一さんはいつまでも若いってね。好きな人に年寄りになった姿は見せたくないんだろうな」
 勘一とは祖父の名だと付け加え、ついでに落ち着きのない僕の行動までもたしなめる。いわく、そんな女みたいなことはするな、と。
「お前のこと、親父に聞いてみるよ。あまりひどいと、本人の時間そのものが止まってしまうらしいからな」
「そういう大事なことは先に言えよ」
「いや、そこまで重症なのは本当に極稀なケースだ。安心しろ」
 無計画無節操を絵に書いたような慎二に言われても、いまひとつ信憑性がない。
「治療法とかあるのか? その時間病は治るのか?」
 半信半疑に聞いてみる。時間病の話全てを信じたわけではない。たしかに症状は僕の今の状況と似ている。脳の何らかの機能低下で体内時計が狂う。実際、僕もそうなのだろう。だけど、こいつの話を鵜呑みにするわけにもいかないんだ。
「まあまあ、慌てるなよ。俺は医者の息子だけど医者じゃない。親父には連絡するから、早いうちに俺の実家に行こう」
「お前の親父さんは本当に信用できるんだな?」
 慎二はいたく傷ついたとでも言いたげな顔で、
「失礼だな。俺が信用できないとでも?」
「できない。胸に手を当てて考えて見やがれ」
「あー、ひどいんだー。こんなにも純真無垢でアリも殺せない俺をいじめて何が楽しい」
「うるさい」
 今でも後悔することが多いが、どうしてこんな奴と出会ってしまったのだろう。学籍番号一番違いという、ただそれだけで友人になってしまったのだろう。恨むべきは苗字を決めた僕の先祖なのか、それとも慎二の先祖なのか。
「そろそろ時間だな」
「時間?」
「講義の時間。時計見てみろよ……っと、お前の時計は狂ってるんだったな」
 慎二はどこかに電話をかけ、すぐに切ってしまうと再び携帯電話を操作する。ほら、と慎二が自分の携帯電話を僕に見せた。デジタルで描かれたアナログの時計は二時を回ったところだった。
「今、時報で合わせた。時間が知りたくなったら俺に聞けよ。自分の時計も自分の感覚も信用するな。時間を聞くなんて些細なことにもしばらくは慣れないと思うが、我慢しろよ。時間病患者は一人でいるよりは、誰かといるのがベストなんだ。じゃ、割り勘で」
 慎二が手にした小さな感熱紙を覗き込む。一枚目に書いてあるのが慎二の和風ハンバーグとエビフライのセット。二枚目に追加扱いで書かれているのが僕の日替わりランチ。
「慎二のほうが高い。俺は日替わり」
「相談料だよ。おごれと言わないだけありがたく思え」
 さっさと立ち上がって会計を始める。もたもたしている僕に向かって、
「ほら、八百円出せ」
 と、手を伸ばしてくる。しぶしぶ千円札を渡して、
「ちゃんと釣り払えよ」
 釘を刺した。振り向いた一瞬の顔が、釣銭なんて知らないと言っていたからだ。本当にこいつは油断も隙もならない。やむなく、会計を済ませた慎二の財布を奪って、中から百円玉を二枚、僕の財布に移した。
 店から出た外は相変わらずの晴天。真っ青な画布の上に、刷毛ですいたような白い雲が長く伸びていた。気持ちが良くて、二人とも乗ってきた自転車を手で押して歩いた。
 空を見上げていると、僕の身の上の問題もささやかなことに感じてしまう。マイペースに表情を変える空には、時間という概念なんてない。時間に縛られることもない。
 大学の門が見えてくる頃、慎二が大真面目な口調で言った。
「専門家の息子である俺様と大の親友だなんて、お前も運がいいよな」
「だから、親友とか言ってるのはどの口だ」
「この口だ」

back/小説目次/next