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時間病(9):back/小説目次

 電話が来たのは太陽が高くなってからだった。位置から察するに九時か十時か、そのくらいだろう。時計にも感覚にも頼らないなんて随分と原始的だ、と自嘲する。
「起きてるか?」
 いつもの第一声でも朝の挨拶でもない。だけど声の調子だけは変わらない。
「起きてたよ。夜明け頃から起きてた」
「早起きだなぁ。電話するまで寝ててもよかったのに」
「自然と目が醒めたんだ。特にすることもないから、再来週締め切りのレポートやってた」
 書き損じたレポート用紙にボールペンでぐりぐりと円を描く。意味もない円の群れはやがて黒い塊となり、紙ごとただのゴミとなる。
「そんなの締め切り間際でいいじゃないか。ったく、俺にはお前の真似なんてできないね。まあ、いい。これから迎えに行く。少し遅くなるかもしれないけど、待ってろよ」
「ああ、わかった」
 慎二が切るのを待ってから電話を切った。耳の奥にツー、ツーという音が残る。レポート用紙と教科書を机の隅に重ね、ペンケースを重しにした。それからやっと行く準備を始めた。
 準備と言っても僕はそう持っていく物もない。携帯電話の充電器と着替えをバッグに入れればそれで終わりだ。あまりにものシンプルさに、ちょっとだけ考えてさらに薄い文庫本を一冊入れた。ズボンのポケットに携帯電話と財布を突っ込んで準備完了。大学に行くときのほうが荷物は多いくらいだ。
 それからさほど待つこともなくインターフォンが来客を告げた。誰かわかっているので、アイホールから確認することもなくドアを開ける。
「お待たせ」
 何ともうきうきとした様子の慎二が立っていた。夏休み前、親父が厳しいから実家には帰りたくない、と駄々をこねていたのと同じ人物なのだろうか。
「今日もいい天気になりそうだよ。絶好のドライブ日和だ」
 手に持っていた黒いサングラスをかけて見せる。すっかり目を隠すサングラスのおかげで、慎二はちょっと近寄りたくない人に変身した。こいつ、どうしてよりによって今日はアロハシャツなんて着ているのだろう。
「ドライブって、運転はお前?」
 そう言って慎二を指差してやると、
「俺とお前で交互に」
 指差され返された。
「ガス代も折半な」
 サングラスを外した目がにやりと笑った。僕は溜息が出かけたけど、全額出せと言われないだけマシだと思っておくことにした。
 少ない荷物を持って下に降りると、エンジンがかかったままの慎二の愛車が待っていた。後部座席の窓に張られたミラーフィルムが陽光を反射する。少し古い型のRV車は主人に文句でも言うかのように低く唸っていた。
「早く乗れよ。後ろな」
 言った慎二は助手席のドアに手をついて寄りかかっていた。僕がどけろと言ってもどけない。強引に取っ手をつかんだ手も、これまた強引に剥がしにかかる。
「俺は助手席じゃないのか?」
「今日は駄目。地図とか荷物がいっぱい乗ってるから」
「荷物なんて後ろに載せろよ」
 地図だって不要なはずだ。何度も車で帰っているから道なんてとっくに覚えているだろう。
「駄目ったら駄目なの。ほら、乗れって」
 どうしても僕をいつもの助手席でなく、後部座席に座らせたいらしい。慎二のにやついた笑いが何かひっかかる。僕は文句を言いながらも渋々後部座席のドアを開けた。
「はい?」
 そこには先客がいた。運転席の後ろにちょこんと座って僕のほうを見ていた。
「こ、こんにちわ。本日は大変お日柄も良く……」
 と、その子は顔を真っ赤にしてしどろもどろに言った。そう、女の子だ。長い黒髪をすっきりとまとめて後ろで留めている。薄い色のシャツにサブリナパンツという、動きやすいけど女性らしい服装だった。
 見たことがあるようなないような顔に、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。
「あの、その」
 何か言おうと口を開くが、突然のことに脳も身体も反応できず、僕もしどろもどろになってしまう。困った挙句、一度車外に出た。ドアを閉めて、相変わらずにたにたとした顔でいる慎二の胸倉を掴んだ。
「誰なんだ、あの子は」
「憶えてないの? 随分と薄情な奴だな」
「だから、誰なんだ」
「例のファイルの子だよ。俺が特別に大事なノートを貸してあげた子」
 ああ、と僕は掌を叩く。
「お前にファイルを返してくれって言った子か!」
 ついこの前、学内で薄緑色のファイルを手渡された女子学生だ。あの長い黒髪と真っ赤な顔に見覚えがあるはずだ。ファイルを僕に渡すと風のように去っていった子だ。しかも、慎二が言う大事なノートとは僕のノートのコピー。
「そう。特別ゲストだ」
「何で一緒なんだ? 今日は俺の病気のことでお前の親父さんに会いに行くんだろう?」
「ほんっと、お前って生真面目な上に鈍いんだなぁ」
 やれやれと芝居がかった口調で言い、慎二はアメリカ人のように大仰に肩をすくめた。その仕草はまったく似合っていない。
「昨夜言ってた薬が彼女だよ。時間病唯一にして最大の特効薬」
「はぁ?」
 まったく何のことかわからない。
「お前とずっと一緒にいたいって言う奇特な娘さんさ」
「すまん、もうちょっとわかりやすく言ってもらえないか」
 行間を読めと言わんばかりの遠回しな物言いで、いまひとつはっきりとしたところが見えてこない。いや、何となくわかるんだけど、きちんと口に出してもらえないと信じられない。
「お前が好きなんだって」
「嘘」
 即答。
「嘘じゃない」
 慎二も即答。
「時間病患者はいつも誰かと一緒にいるのが一番だって昨日話したよな。誰かと時間を共有することで、表面上だけでも日常生活を営んでいける。本当は専門家の息子であるところの俺様がお前と共に生活するのが一番いいんだけど、生憎俺は男と同棲する趣味はない。相手がくそ真面目なお前だなんてもっての他だ」
「同棲なんて言うなよ。同居と言え」
 むっとしながらも言葉を訂正してやる。
「いいんだよ。意味は同じだろうが」
 かなり違うと思う。それでも慎二は直す気もなく話を続ける。
「そこで、前々からお前が好きだという奇特なお嬢さんに話を持っていってやったんだ。こいつと同棲してくれませんかって」
「あのさ」と、僕は慎二を睨む。「それは随分と勝手な話じゃないか? 俺の意思は無視かよ」
 しょうがないじゃないか、と慎二は平気な顔で言いのける。
「お前ってほんっとに女っ気ないんだもんよ。おまけにかなりの鈍感ときた。まあ、この子が引っ込み思案というのもあるんだけど」
 ミラーフィルム越しに女の子を見やる。
「ノート貸したのだって、お前さんと話すきっかけを作ってやるためだったんだよ。なのにちっとも憶えてなかったなんて、ひどい奴だな」
 僕は薄情からひどいにランクアップした。まったく嬉しくない。
「あの」
 不意に車のドアが開いた。ドアのまん前に陣取っていた僕が慌ててよけると、中にいた子が顔を出した。この子の赤面症って、やはり免疫がないのもあるのではなかろうか。
「私が無理言って連れてきてもらったんです。ええと、少しでもお手伝いできればと、その、思って……」
 僕と視線が合うと、真っ赤な顔がさらに真っ赤になって車内に戻っていった。
「な? 今時健気でいい娘さんじゃないか。俺のお勧め物件よ?」
「物件言うな」
 また睨みつける僕の視線を軽くかわし、慎二は運転席に回る。
「せっかくの機会だし、車ん中でゆっくり喋ってみなよ。そのために彼女にも声をかけたんだし、後ろにしてあげてるんだからさ。どうにも合わないならやめりゃいいんだよ」
 そう軽く言うけれど、女の子の気持ちをそう簡単に扱っていいものなのだろうか。
「ま、人のいいお前のことだから付き合ってあげることになるんだろうね。この、色男!」
 勝手なことを好きなだけ言って運転席に入る。こいつは本当に僕のことをどう思っているんだろう。呆れ半分の溜息が出たところで助手席側の窓が開いた。慎二が顔を覗かせ、僕を急かす。
「早く乗れよ。昼過ぎには着くって言ってあるから、もう出発しないと。それと、いまさらこの子を置いて行くのも無しな」
「わかったよ。付き合ってやるよ」
 僕は苦笑して後部座席のドアを開けた。顔が赤いままの女の子が、やけに肩肘張った姿勢で座っている。
「その、こんな俺ですけどよろしくお願いします」
 女の子が小さな声ではい、と返事する。そんなかわいい声を出されるとこっちまで照れてきてしまう。目を合わせるのも恥ずかしい。慎二の実家までどれだけかかるのかわからないけど、その間話していられるのだろうか。
 自慢じゃないけど、僕は地味に生きることを信条としているので話題豊富な人間ではない。かと言って人見知りというわけでもない。見知らぬ人でもそれなりに話せるし、避けるようなこともしない。
 だけど、こんな時は別だ。そもそも、こんな事態に遭遇したことすらない。生まれてこのかた二十年、片想いこそあれ、誰かに気持ちを打ち明けられたことなんぞない。そう、自分に好意を持っているとわかっていて、平気で応対できるわけがない。
 それでもとりあえず、この先どういう付き合いになるかわからないけど、最低限のことは知っておかねばなるまい。
 ほんの短い間にそれだけのことを考えて、うつむく女の子に尋ねた。
「あの、名前教えてもらえるかな?」
 小さな声が名乗るのと同時に車は出発した。平坦な道なのに車はだいぶ揺れた。いつもより乱暴な運転だな、と思う。
 だけどもしかすると、車の揺れと錯覚したのは、心の揺れだったのかもしれない。

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